今日は作業所に出かけたのだが、作業所にいる間中、ずっと胸が苦しかった。
なぜかは分からない。
皆目、見当がつかない。


でも、いい機会だ。
自分としっかり向き合う絶好のチャンスだ。


部屋に戻って、一人、自分と向き合った。


過去にも書いたが、私は母親から散々に、言葉の虐待を受けてきた。
それはたいてい、私が何かをしでかして、取り返しのつかない状態になっているときだったように思う。

何かヘマをして怒られたのならば、回避の方法もあっただろう。
すぐにやり直せばいいのだから。
何かをやっていないが為に怒られるのならば、なおさら、母親の怒りから逃れることは容易だったろう。
すぐに言われたことを、やればいいのだから。


しかしだ、母親が暴力的な言葉を浴びせかけてくる時というのは、いつも、もう今さらどうにも取り返しのつかない状態の時だった。
そうしたどん詰まりの状態の私に向かって、お前なんか私の子どもじゃない、お前なんか生むんじゃなかった!と、母親から罵倒された。
依って立つ大地である母親から、全力で存在を全否定された。


私の心中は、ただただ身のすくむ恐怖だけだったと思う。
(他人事のように書くのは、その時の記憶が実に希薄だからだ)


そして、暴力的な言葉を浴びせかけられるよりも、もっともっと辛いことがあった。
それは、泣くことを許されなかったことだ。


母親の罵声を浴びている間、涙の一滴でもこぼそうものなら、泣きたいのはお母ちゃんだ!とさらに母親の怒りをかい、頬をぶたれた。
もうこれ以上、お母ちゃんを怒らせたくない!
ただただその一心で、しゃくり上げながらも涙を堪えるという術を身につけた。

私にとっては、私の存在を全否定されることも辛かったと思うが、なくこととも許されなかったことの方が、よほど辛かったのだろうと思うのだ。


今、一人になって、自分の心の中のトラウマと向き合うとき、自然と涙がこぼれることがある。
しかも嗚咽を伴って。

悲しいから、涙が出るんじゃない。
辛いからでもない。
こうまでして、54になる今の今まで生き抜いてこられたことに、心の底から歓びが湧いてくる。
その時に、もうこれはどうしようもなく、涙が嗚咽と共にこぼれる。

言葉にすれば、きっと私の中のネガティブな想い出に、ポジティブな再定義付けがされ、それが歓びとなっているのだと思う。
そして、流した涙の量だけ、確実に私の心は軽くなっている。
本当にありがたいと思うばかりだ。



なぜそんなことができるのか?
そんなことはどうでもイイ。
事実こそが大切。
事実こそが全て。


明日からも、私の心揺さぶる出来事を求めて、賢明に生きていくだけだ。
私は私らしくあることで、きっと道は拓ける!