明日は久々に、朝8時に起床の予定。

薬も飲んだ。
テレビも消した。
照明も落とした。
布団の上で横になった。

あとはとっとと起き続けるのを諦めて、目をつむるだけ。

明日は午前中、人前で喋らなきゃならない。
短時間だけど、人前で講釈をたれなければならない。

今日はそのための準備をしてた。
何度も内容をシミュレーションしてみた。
すればするほど、これまでの日々の苦しみとオーバーラップする。
明日のために、今までの日々があったのか?と思えるほど、自身の経験とシンクロする。

でも、それが厄介なのだ。

経験から勝ち得てきた実感を、言葉にして語るのはたやすい。
しかし聞き手が、それを言葉の通りに受け取るのは、とても困難。
利き手にも、同じ様な経験が求められるから。
同じ覚悟が求められるから。

いつもなら短時間で準備が終わるのに、今回は一日かかっても、まだ終わっていない。
時間はないが、先ずは一眠りして、続きは明日の朝、考えよう。

それでも内容がまとまらなければ、もうこれはぶっつけ本番しかない。
集った面々を眺めて、ヨシ、このメンツでこの雰囲気なら、こうしよう!と、現場で判断するしかない。

講釈をたれるのほ、さほど難しいで作業ではない。
型通りの内容でいいのなら、何の苦労もない。
しかし、聞き手の心に残る言葉を吐きたいと願うとなると、途端にハードルが高くなる。
なぜなら、こうした「人に語る」という作業は、語り手と聞き手の共同作業になるからだ。
先ずは語り手が、聞き手の求める意を知り、その意に沿った適切な言葉を吐かなければならない。
そうやって利き手の心を掴む。
その上で、理解して欲しいレベルへと、聞き手の意識を導かなければならない。
聞き手の心からの納得と共に。

そのために、語り手自ら、場の空気も作る。
少しずつ、聞き手の心を高揚させておく。

言葉を吐く、という行為は、自らをさらけ出す行為だ。
吐いた言葉と、吐いた人間が一致していなければ、言葉は虚しく聞き手の頭上を飛んでいくだけ。
吐いた言葉を、確実に届けたい人の心に届ける為には、私自らが素っ裸になる覚悟がいる。
そうして吐いた言葉を担保するのは、私の人間性だけ。
理屈ではなく、素の人間性だけが、言葉を本物にする。

私は言葉を武器として生きていきたいと願っている。
だからこそ、苦労しなければと思っている。
私が本物になった分だけしか、言葉も本物にはなり得ないのだから。

さぁ、明日は頑張ろう!