でもやっぱり「神様」は言いすぎかなぁ~と思いまして、「トラブルの達人」と自称することにしたのです。
そのトラブルの全て、自分で招いているんですけどね
ヽ(´▽`)/
私はトラブルを恐れません。
逆に、トラブルが起こると、非常に冷静になり、頭が急回転を始めるという性質を持ってます。
大昔はそんなことはなかったんですが、30代も中盤ぐらいから、そんな傾向を強めていったように思います。
なぜそうなったかは、語り始めると長くなるのでやめとくとして、一言で言えば「責任感」です。
私は、トラブルが起こる時って「何かが変わろうとしている予兆」と考えているんです。
だからトラブルに良いも悪いもなくて、トラブルに際して、どのように捉えられるかに全てがかかっていると考えています。
私は、先に変化の予兆だと書いたように、その変化をより良い未来につながるようにしたいと考えます。
ちょっと難しい言い回しをすれば、トラブルをして価値化させちゃうんですね。
主体である自分が、客体であるトラブルを価値化させて、その恩恵を主体である自分が得る。
創造的人生って、こういうことを言うのだと思います。
言うは易く行うは難しですがヽ(´▽`)/
そして、私の大きなもう一つの性質は、容易な道と困難な道の二つの選択肢を与えられると、躊躇なく困難な道を選ぶことです。
なぜ?と思ったあなた!
それ、マトモです!!
にもかかわらず、なぜ私は困難な道を選ぶのか。
その理由は単純明快で、容易な道では得がたい、素晴らしい経験が出来る可能性があるからです。
もちろん苦しみや悩みはつきものです。
しかし、それは容易な道を選んでも同じ。
同じく苦しみ、悩むなら、悔いのない方法をとりたい。
だから困難な道を、敢えて選ぶんです。
ただし、これには大切な条件があります。
最後まで投げ出さない、何があっても耐え抜く。
「信念を貫く」ということと「忍耐」は、同義であるのかもしれません。
せっかく人として生まれて、多少長短の差はあれども、一度きりの人生を生きられるのです。
人間だから、悩むことも出来るし、苦しむことも出来る。
だから私は、その人としての特権を、存分に楽しみたいのです。
人生最大のトラブルと言えば、人生の終末に必ず訪れる「死」がそうかもしれません。
この「死」をどう捉えるか。
その「死生観」によって、人生の捉え方、生き方が決定づけられるのではないでしょうか。
私が大切にしている「死生観」では、「死」さえも変化の予兆に過ぎません。
良き「死」は、良き「生」をもたらす。
私はそう信じています。
「死」をも恐れぬから、トラブルに際しても動揺することがないのかもしれません。
「死」をも、良き未来の糧にしていくんだと思い定めているからこそ、精一杯苦しむことができるのだと思います。
全く別の観点からトラブルを見てみれば、より分かりやすいかもしれません。
例えば、世界中の人をして「偉人だ」と言われるような人の生き様です。
故ネルソン・マンデラ、元南アフリカ大統領はいかがでしょうか。
故ネルソン・マンデラ氏は、その思想・信条の故に、27年の長きにわたって投獄されます。
しかし彼にとっては、その投獄さえも良き経験でしかなかった。
事実、終身刑を言い渡された獄中にあっても、勉学を諦めず、博士号を取得しています。
生きて出さないという判決を言い渡されているにもかかわらず、です。
獄中で教室を開き、同じく収監されていた囚人から、多くの人権の闘士を輩出しています。
自らの「死」をも、我が母国の希望の未来のための糧としたい。
そのようなエピソードを知るにつけ、彼の祈り、決上した巌のような意志を感じませんか?
故ネルソン・マンデラ氏を偉大たらしめたのは、恵まれた環境などではなく、苛烈な環境であったという事実は、多くの示唆を私たちに与えてくれるのではと、私は信じています。
恵まれた環境やトラブルがない事は、幸せになるための絶対条件ではない。
逆に、逆境こそが人を強くする。
それこそが智慧を持つ「賢者」の生き方であり、問題のないことをもってヨシとする生き方は、移ろいゆく環境に身をゆだねる「愚者」の生き方なのではないか。
私の前妻のあまりに愚かな行為を見るにつけ、その感をますます強くします。
このような世紀をまたぐ大偉人にかかっては、私のような者は、「トラブルの達人」を自称するのもおこがましい。
ホント、おこがましい!ψ(`∇´)ψ
でも、そんな偉人の「縮刷版人生」ということで、ここは一つお許しをいただき、「トラブルの達人」を自称させていただきたいと思っているぱこちでございます!
( ̄ー ̄)ニヤリ