今日はずいぶんおさまってくれましたヽ(´▽`)/
それでも、何回も起きようと試みるのですが、結局、午後四時まで起床できず。
昨夜は早くに寝たのになぁ...(;´д`)トホホ…
しかし、あの「気持ち悪さ」ずいぶんとなりを潜めてくれただけでも、大前進です!
やはりこの方法、いいかも!
明日以降の変化が楽しみですo(*^▽^*)o

























「私たちは時空をまたいで存在しているのかも」
私は高橋裕子と接していく中で、そんな突拍子もない着想を得ました。
そのように考えると、色んな現象が、なんとなく合理的に説明できる気がしました。
私個人の経験、また高橋裕子の語る経験が、その着想に裏打ちを与えてくれているように感じました。
自分自身を高い位置から見下ろしている自分。
これって、そんな高次元な宇宙の有り様が背景にあるから、可能な知覚なのではないか?
素粒子レベルで語られる高次元構造ですが、私たちはそれを意識し、知覚することができるのではないか?
裕子の中の翔。
精神医学で彼のような存在をどのように解釈するのか、私は知りません。
しかし、確かに私の目の前で、裕子とは全く別人の雰囲気を醸し出す翔。
私の目に映っていなくても、側にいれば、すぐに「翔だ」と分かります。
それを感じ取れる私。
右利きの裕子でありながら、左手で綺麗な字を書ける翔。
裕子の中に存在していることを自覚した時より以前の記憶を、一切もたない翔。
この命題について、翔とも話し合ったことがあります。
翔は「話が難しすぎて、ついていけねぇ」と言います。
しかし同時に「可能性は否定できない」ともいいます。
私の女房の様子も、彼女が遠方で暮らしていても、辛いときは「今、辛いんだな」となぜだか分かります。
以前は何度も確かめました。
何時頃、この辺が、こんな風に、この程度で苦しくなかったか?と。
外したことがありません。
なぜそんなことが可能なのでしょうか?
私は単純に、高橋裕子が高次元をまたいだ別の時空では翔としても存在していたと主張するつもりはありません。
私と女房が、空間を越え、次元をまたいで直接繋がり合っていると、安易に主張するつもりもありません。
一つの可能性として、仮説として、私たち一人一人も、今存在する時空のみに縛られる存在ではなく、より高次元な宇宙に沿って存在する、高次元な存在なのではないかと仮定してみたいのです。
三次元と言うとき、その次元を構成するのは高さであり、幅であり、奥行きです。
ここに時系列が加わり、時空と呼び習わしています。
ここで、さらに高次元な宇宙を仮定するとき、これらの要素とは別の要素が「次元」として加わります。
私はその今だ解明されていない新たな「次元」の中に、意志の力というか、念慮の力というか、思慮の力というべきか、そういった私たちの思考などにまつわる「なにものか」があるのではないか。
私はそんな風に仮定しているのです。
想像してみてください。
私たちは、この宇宙の一部であり、宇宙そのものです。
決して宗教的、哲学的な意味で言っているのではありません。
これは誰も否定し得ない、厳然たる事実です。
誰しもの身体を構成するあらゆる元素、もっと言えば素粒子は、すべてこの宇宙で発生したものであり、この宇宙を構成するそのものです。
もっとも、その宇宙について私たちは、そのほとんどを知り得ていません。
私たちの目に映り、高精度な観測機器で把握できるこの宇宙空間においてさえ、それを構成する物質組成、エネルギーのほとんどを、把握できていません。
その代表的な例として、ダークエナジー、ダークマターなどがあります。
いまだに加速度を伴って膨張する宇宙があります。
その「加速度」をもたらすエネルギーについて、何らの解も得られていません。
昨年、話題となった17番目の最後の素粒子、ヒッグス粒子にしても、論理的には質量をもたないと推測されていたにもかかわらず、僅かながら質量を有していることが、スーパーカミオカンデでの観測で明らかになっています。
これはそれまでの理論を破綻させるものではありませんが、新たな理論の構築、もしくはまだ未知なる統一理論の上に、現状の理論を再構築させる必要があることを示唆しています。
全く同じことが、私たち一人一人の存在にも言えるはずなのです。
私たちは、そのような宇宙に確かに存在しているわけですから、それらの法則から逃れて存在はしていないわけですから。
私たちは幸いにして、自分の目で見、耳で聞き、肌で知覚し、頭で考え、智恵を生み出す能力を有しています。
内なる宇宙への探求。
私たちの眼前に広がる未来を眺めやるとき、そのような努力も必要ではないのかと、強く強く感じるのです。
話が素粒子の話に戻りますが...
例えば加速器を用いて粒子を高速近くまでに加速し、粒子同士を衝突させます。
その時に各種素粒子が発生し、軌跡を描きます。
それを高精度な観測機器を使って、観測するのですが(この高精度観測機器は日本製です)、発生した素粒子は時間軸に沿って存在します。
立ち位置を変えると、素粒子は時間軸に沿って未来に向かって存在しているとみなすことができます。
この反作用として、時間軸に沿って過去に向かって存在する素粒子があることが、理論的には立証されています。
理論的に立証されているだけで、実際に過去にさかのぼって観測する手立てをもたない私たちは、この現象を実験で検証する術をもちませんけど( ´艸`)プププ
同じような事が私たちの、例えば「念慮の力」と称しましょうか、それにも言える可能性があるかもしれません。
それがある故に、未来に絶えざる希望を持つ者は、たとえそれがどんなに塵芥(ちりあくた)にまみれた過去を持つ者であって、その全ての経験を自身の血肉へと肉化できる。
そのようにも考えてみるのです。
私にとって、人生とは実験場のようなものです。
知り得たありとあらゆる情報、経験を「思考」というるつぼの中に放り込み、そこから沸き立つ仮説を実証するために、敢えて、巷(ちまた)で言われるような一般常識的な方法論、ステレオタイプ的な有り様を拒絶し、自分の信念を貫き通す。
その為に、依って立つ大地が割れて崩れ落ちるような恐怖、深遠な闇の上にピンと張られた一本の糸の上に立たされているかのような不安、何者でもいいからすがりつきたい衝動を経験してきたのではないか。
「人としてどうよ?」と言われるような経験さえもしてきたのではないか。
そのように、自分の存在理由を捉えています。
これが「自分史であり他人史であり」を綴り始めた、一番の動機です。