第1話  『お湯を沸かす』
 
 英語は日本語よりも論理的だ、と言う人がよくいます。こういう人が挙げる例として、日本語では「お湯を沸かす」というが、英語では boil water(水を沸騰させる)という。お湯ならもう沸す必要がないのだから日本語は論理的でない、と。

 こんな人に私は反論するのです。「井戸を掘る」は、英語でも dig a well といいます。井戸ならもう掘る必要がないじゃありませんか。「セーターを編む」は、英語でも knit a sweater です。セーターならもう編む必要がないじゃありませんか。「手紙を書く」は、英語でも write a letter です。手紙なら・・・・・・。

 

 これをどうしても論理的に言いたいのなら、日本語でも英語でも「文字を書いて手紙を作る」と言わなければなりません。あ、これも問題がありますね。文字だったらもう書く必要がありません。それなら「線を引いて文字にし、文字を組み合わせて文にし、・・・・・・」線ならもう引く必要がないでしょ。それなら、「ペンを動かしてその結果文字になるようにし、・・・・・・」こうなるともう、パラノイアです。

 

 つまり「地面を掘って井戸を造る」というべきところを「井戸を掘る」といい、「毛糸を編んでセーターを作る」というべきところを「セーターを編む」と言って、場所や原材料である「地面」や「毛糸」を省略して、製品の「井戸」や「セーター」に直接「掘る」や「編む」を使ってしまうから論理的におかしくなるのです。しかし慣用的にそのように言っているので、ふだんは何の矛盾も感じません。

 

 もちろん、たとえば「編む」の目的語を「毛糸」にすることもできますので knit wool into a sweater と言えば正確になりますが wool という材料を知らせる必要がなければくどくなります。同様に「コンピューターを組み立てる」は、原材料である「部品」を目的語にすれば assemble parts into a computer となりますが、この parts は原材料として当然のものであり、さしたる情報ではありませんから、ふつうは assemble a computer とします。

 

 こうした矛盾は材料と製品との関係だけではなく、手段と目的との間にも存在します。たとえば「橋を渡る」です。よく考えると、「橋を渡る」 cross a bridge は、日本語でも英語でもおかしい表現です。「橋を使って川を渡る」というのが正しいわけです。道路を渡るように、すなわち横切って反対側に行くように、橋の上で「渡って」幅の方向に移動しても、目的を達することができないじゃありませんか。「橋」と「渡る」の間にあるべき「を使って川を」または「を通って川を」という言葉を略してしまうから論理的ではなくなるのですが、慣用的に「橋を渡る」と言っているので仕方がありません。論理的に言えば cross the river over a bridge ですが冗長になります。日本語でも英語でも、よく考えると論理的ではない部分がある、ということがわかります。

 

 最初の「お湯を沸す」に戻りますと、もしも英語に「湯」を意味する1語があったならば――その単語を、例えば netto (「熱湯」をもじって)とすると――日本語と同じように boil netto となるはずです。この、1語で事物を表せるかどうかがキーポイントです。1語で表すことのできる事物は、その言語の最初の認識レベルを表しています。形容詞をつけて言わなければならない事物は、二次的な認識レベルです。日本語では「水」も「湯」もそれぞれが1つの単語であるということは、第一の認識レベルです。これに対して、「水」も「湯」も英語で表す1語は water です。「湯」に対する hot water のように、形容詞 hot をつけてしまうと、二次的な認識レベルとなります。

 

 日本語では1語、英語では形容詞つきの2語となる言葉で目立つものは、「兄・姉・弟・妹」を表す言葉でしょう。すなわち、兄ならば older brother (イギリス英語では elder brother)、妹ならば younger sister ですが、ネイティブスピーカーは、ふつうはいちいち older や younger をつけません。日本と違って、長幼の序にはあまり関心がないからです。日本語の「おじ・おば」に至っては、それぞれ2種類ずつあって漢字が異なります。すなわち、父母の兄は「伯父」、父母の弟は「叔父」、父母の姉は「伯母」、父母の妹は「叔母」なのですが、漢字で書かなければ煩わしくありません。

 

 1語の「湯」と2語の hot water の関係とは逆の例を挙げましょう。つまり、日本語では形容詞付きとなるのに、英語では1語となる場合です。それは「客」と、それに対応する英語です。日本語では店の客も芝居の客も家に招いた客も、さらには招かれざる客も全部「形容詞+客」ですが、英語はこれらに対していちいち単語が異なります。

 

 「店の顧客」は customer、「買ってくれそうな見込み客」は prospect、「美容院や弁護士の依頼客」は client、「芝居の観客」は audience、「招待客」は guest、「訪問客」は visitor、「バスや電車の乗客」は passenger、「おしかけ客」は gatecrasher(これは合成語ですから2語に近いといえます)となります。従って、「今朝、お客さんが見えました」という日本語を英訳しようとしても、客の種類がわからないと正しく訳せないことになります。

 

 「客」を意味する古来の日本語「まろうど」は「まれびと」すなわち「稀にくる人」が転じたもので、客の種類には関係なく「もてなすべき人」であったはずです。

 

 このように詳しく見てゆきますと、ことばは文化を表している、ということがわかります。ところで冒頭の「英語は日本語よりも論理的か」については本格的な議論に入りませんでしたが、この『まじめ半分「英語」の話』に継続して出席されますと、どちらがどのような点で論理的かについての一定の理解が得られと思います。

 

                                                第1話 はこれで終わりです。

 

 この、『まじめ半分「英語」の話』は英語に関する硬軟のバラエティー記事です。

筆者が過去に日本IBMで『英文ライティングセミナー』を実施していたときに、このような「話」も社内のイントラネットで発信し、多くの社員に読まれました。

 

 第2話 は約2週間後にお届けする予定です。