悪ガキたちに関しては、

私は、1つの壁を乗り越えた

ような気がしている。


が、それとは別に、

大きな出来事があった…


私は、辞めたいくらい、

不快に思った。


ものすごく、腹が立った。


検索してみると、

私の思いと合致する意見が

多くて、

尚更、腹が立った。


私は、

悪ガキたちが付けた、

私のニックネームを、

気に入っていた。


私は、気に入ってたのだ。


それは、

私のニックネームなのよ!💢


なのに、


なんで?


そのニックネームを使っては

いけないと、


他の先生方が、

子どもたちに、

使うのを止めさせた。


私が、

その名前気に入ってるのだ

と言うと、

ええっ?

って驚かれた。


驚くことないでしょう。


別に変な名前じゃないし…


悪ガキたちは、

私が初めてここに来た時、

からかうつもりで、

そう呼んだ。


それは、わかっている。


だけど、

私は全然嫌では無かったので

他の部屋の子どもたちが

そう呼びだしても、


むしろ、


「そう呼んでもいいよ!!」

と、

自ら推奨してきたのだった。


なのに、

なぜ、

私の呼び名を、

他の人に決められなきゃ

いけないのだ💢


私に対してそう呼ぶのを

認めると、


子どもたちは、

他の先生にもニックネーム

を付けて呼び始めるから、

ダメだと言われた。


そんなことはないだろう。

私のそれは、誰もが自然に

思い浮かべる特別なものだ。


でも、もしも万が一

そうなった時は、

私の責任だと思う。


だから、


そうなる気配…

他の先生や、他の子どもに

迷惑がかかるようなものを

少しでも感じた時には、

直ぐに、私から子どもたちに

話をして、


不快になるような呼び方は

させない。


場合によっては、

私の呼び名を使う禁止令を

出そう。


そう思った。


私は、

児童クラブの指導員全員に

そう伝えようと思った。


いや、


そんな話をわざわざするのは

変?


そんなオーバーなことに

しない方が、

自然に残る?


そんなことを

自分から言い出すなんて、

バカだろうか??


でも、

私は気に入ってるのに、

勝手に、禁止されるなんて

おかしいよ。


その名前を、

子どもたちに使わせてと、

頼んでみよう。


そう決意が固まり、


私が不快じゃなく、

むしろ喜んでると知ったら、

使わせてくれるだろうと

思ったのよ。


私は、そう思っていた。


当然でしょ。


自然発生的に

そうなったのだから、

いいでしょ。

本人が、本当に、

気に入ってるのだから。


だってそれは、


両親公認のニックネーム

なのよ!!!


私が産まれた時、


2つの名前候補が残った。


もう一方は、もしかしたら、

こんなニックネームが

付くかもしれない。


でも、こっちは、

付いたとしても、せいぜい◯◯◯◯◯くらいだろうから

いいだろう。


という理由で、

私の名前は決まった。


にも関わらず、

私の人生で、

◯◯◯◯◯と呼ばれたことは

ただの一度も無かった。


それが、

人生をひと回りして、

今、そう呼ばれてるなんて、

天国で両親は、

大笑いしてるだろうな、と、

可笑しくて可笑しくて…


私の人生の、楽しい、

思い出のエピソードになると

心から楽しんでいたのに。


なのに、

なぜ、それを、

赤の他人が禁止する?


支援員の先生みんなの前で

話したら、

ケチョンケチョンよ。


言下に却下されたのよ。



女の子たちもね、


「それは、あだ名や無いで。

愛称やで。」


と、わかってるのに!!


「小学校内で、あだ名は

禁止になってるから」


の一点張り。


だから、これは、

「あだ名」じゃなくて、

愛称だってば!!


子どもにでも違いがわかるのに


大人は、わからないんだ。


『あだ名』

『ニックネーム』

『愛称』


この違いがわからないんだ。


バカかいな。


味噌◯ソ一緒にするな!💢


と私は思った。


それほど私は腹が立ったのよ。


蔑称

あだ名

ニックネーム

愛称


全部ごたまぜにして、

全部使わせないようにしたら

イジメの根本が

解決するとでも??


アホかいな。


人間は、考える葦だぞ。


ちゃんと子どもらに

考えさせろ!!!


何が、いいことか、

何が、いけないことか。


ちゃんと考えさせろ。


考える機会を奪って、

それが教育か。


ただの怠慢じゃないか。


相手を思いやるとは、

どういうことか。


相手を不快にさせるとは、

どういうことか。


そういうことを考える機会を

与えずに、

思いやりが育つと思うのか。


心の中に育つ

『快』と『不快』の違いを

学べると思うのか。


五教科の勉強より、

人間として、

こういう勉強の方が、

ずっとずっと大事。


問題が起こった時に、

どう解決すればいいかも

学ばせろ!!


手抜きをして

イジメの解決能力が

育つと思うのか!!


温室で育てて

健康な人間が育つと

思うのか!!


太陽の下で走り、

土の上で、時には転び、

少々の怪我をし、

ばい菌にも曝されながら、

人間は、逞しく生きていく。


『生きる力』って、

そういうことじゃないのか?


『生きる力を持った人間

を育てる』って、


そういうことじゃないのか?


めちゃめちゃ腹が立ったので

思うことをぶちまけさせて

もらいました。



『愛称の存在する世界』と


『愛称の存在しない世界』


どちらに住みたいか…



親が付けてくれた名前も

もちろん大事。


それを否定するのでは

決してありません。



でも、

愛称というものが、

人と人を繋ぐ上で、

とても大きな役割を

果たしている。


ここをバッサリ斬り捨てて、

それを何とも思わないような

教育がまかり通っている。



『それは、あだ名やなくて、

愛称やで』


味噌◯ソ一緒にしている大人は


こう言った子どもの爪の垢を

煎じて飲んだらいい。



ピアノの先生をされてて、

そこではいいかもしれないけど

ここは学校内だから、

遊びとは区別して。


というようなことも

言われた。

クッソ〜


学校よりも見下された?

という気がしたゾ。


学校がそんなに偉いのか?

完璧、疑いもなく、

それが正しいと

洗脳されてる感じだった。


近くに感じていた仲間が

遠く感じた。


仕事仲間は、          友だちでは無い。


という言葉が浮かんだ。


そうだな…


仕事仲間であっても、

友だちには、なれない。


私は、一人で強く

生きて行こう。


表面だけ合わせても、

心は違う。


上手くやろう。

上手に生きよう。


醒めた気持ちになった。



私の気持ちの

切り換えとしては…


その愛称で呼ばれることで

人気を得ようとするなら、

それは違うし、


そう思われるのは嫌だし、


すごく気持ちが悪いものが

残るけど、


本名で呼ばれるのは、

それはそれで嬉しいし、


ここでぶちまけることで

少しは気が晴れるかな?


と思って書きました。


検索してみて、

同じ気持ちの人がたくさん

いることも知りました。


私は全然知らなかった。

今の学校教育が、こんなこと

になっているなんて!!

自分の呼び名が問題になり

初めて知りました。