麻酔の手技や、投薬に個人的な感情を交えるわけにはいかない。
いつも通り、事故の無いように黙々と処置を進めなくてはならない。
術中・術後の痛みのコントロールのための硬膜外麻酔のチューブの挿入。気管内挿管。オーベン(指導医)と共に着々と進める。
まず、チオペンタールでスカンと寝て頂き、筋弛緩剤を投与。それから酸素・吸入麻酔薬のブレンドでマスク換気をしながら、十分に筋弛緩剤も効いたところで挿管である。右手で口を開け、左手の喉頭鏡で喉頭展開してみると、元々スモーカーのその男性、声門あたりに痰がべっとり付着している。アトロピンを術前投与しているのに・・・術前禁煙を守っていなかった証拠だ。
「吸引下さい」
目を離さずに、外回りさんに手を出すと、口腔内用の吸引チューブを手渡される。
ズルルッと、痰を引いてから
「じゃぁ挿管チューブ」
また手を出すと、外回りさんが挿管チューブを手渡してくれる。そして無事挿管。
腹部の手術であったから、鼻から胃管を挿入。
その際、先ほど痰をすすった吸引チューブで鼻水もすすっておいた。
シンプルな開腹手術であったので、手術はトラブルもなく進んでいった。
手術の終わるタイミングと、麻酔からの覚醒のタイミングを合わせることも、麻酔科の腕の見せ所である。勿論慣れないうちは早々と起こすことを優先させるべきではない。
一度かなり初心者の頃、耳鼻科の手術でもうあと一針二針で手術終了の頃、自発呼吸でゲホッとなった患者さんがいた。慌てて麻酔を深くしようとしたら、執刀医達から
「もうすぐ終わるから、丁度いいよ。」
と言われた。術者も麻酔が切れるのを永遠に待つのは嫌いなのだ。
ところが、その患者さんの麻酔の切れ具合はすさまじく早かったようで、次の瞬間
ぐぉぉぉぉ・・・・・っ
と上半身を起き上げようとした。さすがの術者達も
「おっとっと、もうちょっと待って!」
私も勿論、大慌てて吸入麻酔薬の濃度を上げてもう一度寝て頂いたことがあった。
その日は、そんなこともなく、手術終了間際にオーベンを呼んでもらい、手術終了と同時に、リバース(筋弛緩剤の拮抗薬と、その薬剤による副作用を抑えるための薬のカクテル)を投入、着々と抜管への準備を進めていた。
「○○さ~ん、手術終わりましたよ、分かります?分かったら手握ってください!」
手を握り返せる筋力と、理解力がなければ抜管はできない。それを確認した後、
リバースを投入で増えた分泌物分泌物を、気管内チューブから清潔な吸引チューブで吸引する。これは肺炎の原因になるので絶対に清潔でなければならない。案の定ヤニで真っ黒な痰がずずずっと引けてきた。
私もスモーカーだからこうなるのだろう。
そして手元に酸素マスクを準備しながら、気管内のチューブを抜管した。しばらく観察。呼吸も安定。
そこで、口の中を覗くと、痰とよだれが・・・吸引しなくてはならない。
前日の股ぐらポリポリ姿はまだ記憶に新しい。
私は、口腔内用の吸引チューブを手に取った、と思ったら手が滑った。
チューブが床へ・・・かなりバッチイ
人間の口腔内はもともと雑菌だらけなのである。
誰も見ていない。3秒ルールだ。もうちょっと長かった・・・かも。
そのチューブを拾い上げると、
「お口の中きれいにしますよ~」
優しくよく通る声で語りかけながら、思う存分吸引した。
普段は当然、吸引チューブを酒精綿で拭ってから使っている。
私のお仕置き。
その後、リカバリールームにいた間も、血圧や呼吸のチェックは怠りなく行ったし、硬膜外麻酔も効いていたようで、痛みもなかったようだ。
するべきことはしたのだ。
私は、医の倫理に背いていただろうか・・・?
やはり、ペコペコはしなくてもフレンドリーにはする。
人を見て態度を変える生き様が、こんなことに繋がった一例だと思うのだがなぁ。