自由とは心臓の鼓動・機能のある身体・脈の音・筋骨の可動ではないかと思うのです。

 

 

クローチェの著書を読んでいて、

そんなインスピレーションを受けました。

Amazon - 思考としての歴史と行動としての歴史 (フィロソフィア双書) | ベネデット クローチェ, 忠男, 上村 |本 | 通販

 

(本の内容とは関わらないのですが、行間の空気や読んだ時に得た感覚でそう思いました。)

 

 

体は「自由」の塊なんだなーと。

 

 

実体は各細胞、多様な生命体の集まりが体で、

多様な生命の共存協存の結果日常活動することができる。

 

晴れた日の散歩を楽しむことができるのも、そのお蔭様。

 

 

 

 

自由は権利や義務という話の以前に、

そこにあって、いかに活かし守り味わい、且つ社会と共存共栄していくか

というところで話をしないといけないと思います。

 

自由は社会に許容されて豊かに成立しているもの。

 

社会が自由を許容しないのであれば自由の範囲は狭められる。

社会が成り立たない程の自由はもちろん制限される。

 

 

 

無人島の自由を仮に設定してみると、

 

食べることや水を飲むこと仮の家を建てること、そういった「働き」は必要になります。

これを社会生活に当てはめると「労働」は自由を阻害しないものと見ることができます。

 

病気や怪我をすることがあるかも知れません。物もありませんし運んでくれる人もいません。故郷に帰るにも移動手段がありません。人なり道具なり知恵なりの「助け」が必要となります。

社会生活での「助け合い」も自由は阻害しません。

 

 

厨二な頃は「労働」も「助け合い」も自由の邪魔だと思っていました。ところがそうでもない。

逆に生きる中で自由を拡大し揺らがないものにしてくれる。

 

素晴らしいものだったんだなーと勝手に感謝感激しています。

 

 

 

 

 

逆に圧政、蛮族の襲来、略奪、聖俗両権の専制、戦争と内乱、迫害、亡命、絞首台

繰り返されることで自由は崩壊していく。

 

 

自由とは両面あって、

 

「身体とともにあるもの」「社会の中で許容されるもの」

 

 

 

 

自由を発揮するためには

 

身体を活かすこと、最低限の秩序やルールを保つ努力が必要なんだと思います。

 

また不当な制限は取り払うことを認めてもらわなければならない。

 

 

 

歴史は人体と共にある。

 

当たり前なのですが、歴史の良し悪しを語るよりも、

 

その当たり前をきちんと意識することが

 

人を理解し大切にする為には必要なんだと思うのです。