この日の俺 | さてと、今夜はどこ行く?

さてと、今夜はどこ行く?

酒場であったあんなこと、こんなこと。そんなことを書いてます。ほとんど、妄想、作話ですが。

この店のカウンターは普段はほぼ使われていない。

フロアのテーブル席が満席で、そんな時に一人客が入ってきた、なんて場合に使わせてもらえる。

この日の俺がまさにそれだった。

店に入るとフロアのテーブル席は満席で、酒飲みたちで盛り上がっていた。

帰ろうか、と踵を返しかけたら、店の姉さんが、「カウンターでよかったら。」と俺をカウンター席に勧めてくれた。

勧められるがまま、カウンターの端に一人腰かけた。

カウンターだと、フロアに背を向けて座ることになるので、フロアの様子は窺い知れない。

背後を振り向けば、目にすることができるが、それは不自然に映るに違いなかった。

男ならだれでも経験があると思う。

自分の前方をスレンダーな長い髪の女性が歩いている。

足を速め、さりげなく彼女を追いこす。

が、そこまでだ。

その後、振り返ることがどうしてもできないのだ。

凄く振り返りたい。

振り返って、彼女の顔を拝みたい。

でも、それができないのだ。

結局振り返ることも無く、そのまま足早に歩き続けてしまって、彼女の顔は知らぬがままに終わってしまう。

この日の俺がまさにそれだった。

フロアからは、聞き覚えのある声が聞こえてきていた。

聞き覚えがあると言っても知り合いのそれではなくて、テレビやラジオで耳にする、独特の声だ。

振り返りたい。

しかし、それが俺にはどうしてもできないのだ。

結局、真正面に見える厨房の様子を見据えたまま、俺は黙々と飲み続ける。

終盤に差し掛かった頃、その聞き覚えのある声の持ち主が、俺の背後に近づいてくる。

男ではなくても想像がつくと思うが、例えば、街で有名人を見かけたとき、どうするだろうか。

駆け寄って、ファンなんです、と告げ、握手やサインを要求するだろうか?

それとも、見て見ぬふりで、気付かなかったことにしてやり過ごすか?

俺は、本当の本当のことを言うと、前者を選択したい。

だが、なかなかそうは行動にうつせないのだ。

結局、後者でやり過ごしてしまう。

この日の俺がまさにそうだった。

声の持ち主は仲間たちと帰り支度をして、俺の背後で会計を済ませ、今まさに店から出ようとしている。

声をかけるなら今だ。

だがそれが、俺にはできないのだ。

背後を振り返ることも無く、スマホを眺め、誰かのブログなんかを読みながら、周りには興味ない風の体裁をとってしまっている。

そうこうしているうちに、声の持ち主は、店から出て行ってしまった。

「ま、俺なんかに声をかけられても迷惑だろうしな。これでよかったんだよ。それに声だけそっくりな別人さんかもしれないしな。」

でもその可能性はほぼ0だった。

会計の際、店の人が、その声の持ち主の苗字を話す声が聞こえてきてしまっていたから。

声だけそっくりな別人さんだけど、苗字はその本物と同じなんて可能性はほぼ0に違いなかった。

「過ぎたこと、過ぎたこと。これでよしよし。」

自分を宥め言い聞かせながら、この日の俺はグラスの酒を飲み干した。

 

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