一粒の籾 | まりるのブログ

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いやはや、単なる独り言です。

日曜日の大河ドラマ「花燃ゆ」は、吉田松陰が安政の大獄によって死罪となる所のお話でした。

今朝は、大河の前半部分ダイジェストを放送していて、再度また見入ってしまいました。

杉家の人々、松陰の思い、取り巻く人々の思い

涙がこみ上げてしまいます・・・。



ドラマで放送された、松陰が打ち首になる際のセリフ


「死を前にして心安らかです。私も実りの時を迎えたからです。
私のこころをついでくれる人がいたら、私の実は空ではない。
どうか、一粒の籾として、次の春の種となれますよう。」



これは松陰の書いた留魂録からこのような台本にしたのだと思うが、このシーンは、松陰の様相もセリフもなんだかキリストを思わせた。


聖書には「一粒の麦」の有名な聖句がある。

 「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネによる福音書12:24)


ごく普通の人が命を懸ける事は少ない

幕末の激動の世であっても、自分に関係ないこととして無視して生きることもできる

何がその人を突き動かすのか

「至誠」「志」

平和な世の中、特に自分の周りに心配なことも迫りくる危険もない

しかし

自分は何のために生きるのか?

何故この世に生まれてきたのか?

もしかしたら、短い命かもしれない

いつ終わるかわからない命をどのように生きるのか

与えられた命を大切にしたいと思う


そして、日々、誠を尽くして

小さい死を繰り返す覚悟をして生きたいものだと思った。


神さま

どうか、多くの死があなたに委ねられ

復活の命へと繋がれますように


日々の食事とともに

み言葉を食する恵みに感謝します

アーメン



下記が留魂録の現代訳抜粋


【第八章】
今日、私が死を覚悟して平穏な心境でいられるのは、春夏秋冬の四季の循環について悟るところあるからである。つまり、農事では春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れる。未だかって、この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるのを私は聞いたことがない。

私は現在三十歳。いまだ事を成就させることなく死のうとしている。農事に例えれば未だ実らず収穫せぬままに似ているから、そういう意味では生を惜しむべきなのかもしれない。だが、私自身についていえば、私なりの花が咲き実りを迎えたときなのだと思う。そう考えると必ずしも悲しむことではない。なぜなら、人の寿命はそれぞれ違い定まりがない。農事は四季を巡って営まれるが、人の寿命はそのようなものではないのだ。

しかしながら、人にはそれぞれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳にして死ぬものには十歳の中に自ずからの四季がある。二十歳には二十歳の四季が、三十歳には三十歳の四季がある。五十歳には五十歳の、百歳には百歳の四季がある。十歳をもって短いというのは、夏蝉(せみ)のはかなき命を長寿の霊木の如く命を長らせようと願うのに等しい。百歳をもって長いというのも長寿の霊椿を蝉の如く短命にしようとするようなことで、いずれも天寿に達することにはならない。

私は三十歳、四季はすでに備わっており、私なりの花を咲かせ実をつけているはずである。それが単なる籾殻(もみがら)なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、私がささやかながら尽くした志に思いを馳せ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それは即ち種子が絶えずに穀物が毎年実るのと同じで、何ら恥ずべきことではない。同志諸君よ、この辺りのことをよく考えて欲しい。


http://shashinsozai.blog97.fc2.com/blog-entry-127.htmlより