私たちの人生を根底から支えてくださり
すべてを受け止めて揺らがない人
それは
イエス・キリストという方です。
本田哲郎と言うカトリックの神父様がいます。
この方の書いた
「釜ヶ崎と福音~神は貧しく小さくされた者と共に」
ご存知でしょうか?
この表紙と扉に書かれたレリーフがその内容の本質を物語っています。
私たちは神さまを思う時、顔を天の方や上の方を見上げないでしょうか?
教会でも十字架は正面の上の方に据え付けられ、寺院でも神社でも、大切に箱にしまわれていたり
きらびやかな飾りのついたお堂の中に安置されていたりしますね。
けれども、本当の神さまと言うのは
上を見上げてもいらっしゃらないのです。
本当の神さまは私たちの足元にいらっしゃり、私たちに日々踏みつけられています。
何かを求めて物乞いする時、一番後ろに並んでいらっしゃるのが本当の神さまです。
キリスト教の神さまと言うのは実に変です。
後世の教会はキリストの十字架に金箔をかぶせ、荘厳できらびやかな教会の中にそのシンボルである十字架を掲げました。
けれども
本当は、その事実はまったく真逆です。
キリストは、誰からも祝福されず、故郷だと言うのに泊まるところもなく、宿をたらいまわしにされた挙句、家畜小屋で生まれ、家畜の餌箱に寝かされました。
救い主がお生まれになった!」
一番初めにその素晴らしい知らせを聞いたのは、貧しく、学もなく、どんな時も目が離せないような弱い羊を飼う職業の人たちでした。
当時は安息日であっても教会に行くこともできないし律法を守れない、世の基準から外れた、負け組の底にいるような、人々からは蔑まれていたような生業の人たちでした。
また、イエスは成人になって、神の国を伝える仕事をはじめても、ただの大工の息子として故郷ではまったく理解されず、自分が選んだ弟子たちには裏切られ、天の父に血の汗を流しながら祈っても受け入れてもらえず、唾をかけられあざけられ、人間の嫉妬の対象となり誤解され、失望され、罠にかけられ、罪に問われます。
十字架刑と言う他国の処刑にかかり、その十字架はあまりに重すぎて自分で担ぎ切ることもできず、見ていた人が代わりに担ぎます。
2人の罪人と共に十字架にかけられ、あっけなく亡くなります。
何と言う、惨めなさま
何と言う、期待外れ
民を救う事ができないばかりか、自分さえも救うことができない。
あるキリスト教主義の病院で、ある未信者の入院患者が、部屋にかかっている十字架をはずしてくれと頼んだそうです。
そりゃあ、当たり前ですよね。
十字架は外国のお墓にある墓碑であり、その人にとっては死のシンボルなのですから・・・。
では、なぜ
クリスチャンたちは
そんな惨めで愚かに見える神さまを
信じ、救われ、人生を豊かに歩き始めているのでしょうか?
4月の5日はイースター(復活祭)でした。
イエスは十字架にかけられて死にました。
そして、冥府に下りました。
けれど、イエスは死に勝ったのでした。
イエスが甦ったからです。
「ピリオドをカンマに変えてくださった」とある牧師がよくおっしゃっていました。
私たちは、もうだめだ!
最後だ!どん底だ!ありえない!
そのように失望します。
けれども、はじめに神さまの方がすべてを体験してくださっているのです。
究極のどん底から
私たちを救ってくれると言うのは、上からではなく、下からなのです。
神さまはいつも私たちを根底から支えてくださり、上へとリフトアップしてくださる方なのです。
そして
小さくされている人、弱くされている人を通して
神さまは天の扉を開けるのです。
究極にへりくだったのは神さまでした。
それ以下に人は行くことはできません。
上を見上げていても神さまはやってきません。
誰にも知られないような、貧しい所に神さまはおられるからです。
私たちの罪で汚れた飼い葉おけの中に生まれてくださるからです。
私たちには誇るところは何もないのですが
本当に安心していられます。