平野啓一郎氏の小説「本心」と、読みかけの「空白を満たしなさい」

 

ちゃんと全部読んでから感想書いたら?

という気持ちもあるけど、

 

 

感想を書くのが目的じゃないもんなあ、と思ったので、書く。

 

 

 

ネタバレ有。

 

 

 

 

「本心」は亡くなった母親を、AIで蘇らせる話。

 

AIのデータの入れ方で、より生前の「母」に近づけられるという。

 

 

 

平野氏の2作を読んで、ふっと思い出したのは、「エヴァンゲリオン」。

 

 

綾波、という、すげ替えのきくエヴァのパイロット。

 

 

死んでしまっても、山ほど同じ個体があって、

文句も言わずまたエヴァを操縦する。

 

 

死んでしまった綾波も、2代目の綾波も、「エヴァのパイロット」という意味では一緒だし、

パーソナルな個性もほぼ同一と見受けられる。

 

 

「本心」のAIの母親は、データの入れ方で、「同じ」母親にはならない。

 

 

もちろん、個体差はあって、

Aという個体に、αというデータを入れた時は、同じ結果になるけれど、

他の個体にαというデータを入れたとしても、同じ結果になるとは限らない。

 

また、ある集団にαというデータを入れたところ、

40%は似たような結果になる、とかいう偏差もあるだろう。

 

ただ、その個体差部分を抜き取って、

「本当の私」的な核を見極めようとしても、それを成功した例を見たことがない。

 

 

 

「空白を満たしなさい」では、

死んで蘇った主人公が、蘇るまでの記憶がなく、それを探し回る話。

死んで蘇るまで、周囲の人々は主人公の居ない世界を生きている。

「主人公がいない」前提で生きていたのに、いきなり蘇る主人公。

 

綾波の逆。

夫、父親、仕事等、彼の役割だった部分があやうい状況で、

「私」は私足り得るのか?

 

 

綾波は役割によって、どの綾波でも「私」足り得る。

が、反面、「役割」=私そのものを見てくれていない、という不満にもなる。

かといって、私そのもの、って何?

 

と問うてみれば、データの集積である「私」は、

同じデータ(過去)を積み上げれば、同じ人間になってしまう。

 

 

「私って、何?」という問いは、

人前で話題にすることはほぼないと思うけど、考えたことがない人はいないだろう、内容だと思う。

 

 

そういう根源的すぎて、口にするのを憚られる内容。

 

 

 

「本心」「エヴァ」「空白を満たしなさい」

 

これを書いている私も、「私って、何?」という気持ちがあるからこそ、

この3作品に惹かれたのだなと思うわけだが。

 

 

 

ここまで考えてきて、

「私」がある程度まで、データの集積(経験)部分が大きい、

つまり「私」でなくても再現性のあるものかもしれない

 

(特に最近出てきたチャットGPTとやら。作家さんの作品を学習させると、その作風で作品作るという。

 もう、こうなると「私」の存在意義とかほんとアヤシクなってくるでしょう?)

 

 

と、思ってしまうと、、、、、。

 

 

 

空しくなっちゃいますよね。

 

 

 

 

 

ただ、ひとつ気づいた。

 

 

データの集積、とか、過去の経験、とかそれって、外から確認できることばかり。

 

 

本人が、その「過去の経験」をしたとき、どんなことを感じたか?

 

今、その人は何を感じているか?

 

 

 

それは、もし周囲からみて、唯一無二の「私」(個人)じゃなくても、

 

「私」が感じている、という意味では、唯一無二。

 

 

 

そっか、自分が何を感じているか、を見つめてあげれば、

「私とはなんぞや?」なんて、関係ないんだ。

 

 

 

そう考えると、シンジ君は、不幸だよね。

 

「周囲から言われたから、エヴァを操縦する」

「うまくできないと、存在しちゃいけないと思って落ち込む」

 

ぜんぶ、周囲におぜん立てしてもらわないと、不満と思ってる。

 

 

アスカは逆で、周囲が否定しようが「私はこうする!!」と自分からやることで、

「私」を成り立たせようとしている(けど、躓くと弱くなるのは、大元で母親から否定されたのに反発しているからで)

 

 

 

いろんなパターンがあるけど、

「私」を私足らしめないと生きちゃいけない、生きにくい、と

勝手に思っているということこそが問題なんじゃないかと。

 

 

だから、「唯一無二じゃない私が、今、何を感じている?」と

自分に聞いてあげよう、って思えた。