携帯から無機質な『目覚まし音』が、鳴っている。
昨夜はめずらしく深夜の1時に寝たので、7時の『目覚まし音』は、
今日も、「普段の生活が始まった事」を私に教えてくれました。
母は3月6日の昨日の午後6時20分に、母の兄の待つあの世
に、旅立ちました。
『静かに安らかに逝った』と、母の最期に一人で立ち会う事が
出来た兄が、病室に父と夫と駆けつけた私に、そう言いました。
やはり、私は母のその臨終に間に合いませんでした。
母は難病で国立の病院に昨年の夏から、入院していました。
担当の先生から、『母の病気にはまだ治療薬がない事と
母の余命はもってあと3ヶ月だと、』その入院の時に言われて
いました。
それが、秋が過ぎ、暮れに肺炎になりながらも、1週間の
投薬と処置で、母は肺炎もやっつけて生き続けてくれました。
そして、母の結婚記念日の『節分の日』も無事にベットで
迎えました。
父は認知症もあり、結婚記念日は忘れていましたが、
母は女ですから、覚えていました。
私が、「結婚記念日、おめでとう。」と母に言うと、ベットに
横たわる母は嬉しそうな顔で、首を縦にして
うなづきました。
あれから、やっと一月が経ちました。
早咲きの桜がちらほら咲く季節になり、母に携帯に撮った
桜の写真を見せるつもりが、
母が逝った6日の前日に私は病室に顔を出したものの風邪
が完治していないので、寝ている母の顔をのぞいて伝言を
看護師さんに渡したのです。
この次には私も元気になって、いっぱいの思い出を母に語り、
桜の写真を見せようと、思いながら、私は家に戻ったのです。
その翌日に私の携帯が鳴りました。電話がかかったと
知らせてくれました。
「母の呼吸が苦しい。早く病院に来て下さい。」と、
兄が連絡を受けて、
私に連絡してくれたのです。
「母が危ないかも」と、直感しました。夫に「静岡まで私を車に
乗せて」と連絡して、二人で新東名で向かいました。
急ぎました。
母はエンジェルケアをすませて、静かに横たわっていました。
顔にはまだ白い布は掛かっていません。
母の白髪交じりの髪を私はなでながら、母のその静かな笑み
を浮かべたような顔をただじっとながめながら、『もう、いいよ、
お兄さんが迎えに来たね。』と、
心の中で母に語りました。
母は先に逝った兄の待つ、世界に今しがた、息子に看取ら
れながら
旅立ちました。
兄は1時間ほどの間母の手を握り、意識のない母に語りかけ
ながら、必死で泣きながら、「家族が病室に駆けつけるまで、
母に生きてほしくて」母の両手を握っていたのです。
でも、父も市外に住む私や、仕事中の私の娘も、隣県に住む妹も
残念ながら、
母の最期を看取ることは出来ませんでした。
でも、兄に看取られ、優しい病院の先生や看護師さんに
十分な処置をしてもらい皆さんにも看取られて、旅立ちました。
心臓と呼吸が一緒に停止しました。
私はまだ体温の残る母の両手を握りしめて、母の足をさすり
静かに妻の死を、受け止めようとしている父、私の夫、
泣いている私の娘、そして、兄が私の周りに、大好きな家族
がいました。
母はその真ん中で静かに横たわって3年4ヶ月の闘病生活を
しっかり生き抜いて、難病と闘い、敗れながらも、母の
懐かしい兄のいるその世界に今、今、この時に
旅立ちました。
葬儀社の方と連絡を兄と一緒にとり、母のお迎えを静かに
待ちながら、私は
まだ、泣けませんでした。
大変な闘病生活でした。みんなが出来る事を頑張りました。
しかし、母の希望通りの「延命処置拒否」で、静かに闘病生活に
幕がおりました。
おわりました。
翌朝の実家の裏山からあがった、朝日を眺めながら、
私はしばらく太陽を拝みながら、今日から母のいないときが始まる。
そう思いながら、「しっかりしようと」、心で誓いました。
私の母の健康を祈って下さった方々にお礼を申しあげます。
ありがとうございました。






は更年期のなせるワザかなと


