近くにある 世界遺産 勝連城跡に立ち寄りました~ ✨
勝連城跡については、資料に基づいて説明いたします。

沖縄本島の東海岸にある勝連半島の付け根の丘陵に位置する勝連城は、高低差を活かした城づくりが特徴の城。
10代にわたり按司(あじ。地域の首長のこと)によって治められてきたが、10代の城主、阿麻和利(あまわり)の治世が最盛期といわれ
地の利を活かした中継貿易で経済力と軍事力を持ち、首里王府とは別の道を歩もうとするが、最終的に王府の軍勢によって滅ぼされ、衰退していった。
平成12年(2000)12月には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録され、海中道路などとともに、中部有数の観光地として多くの観光客でにぎわっている。



勝連半島の東西に、細長く延びた形で築かれた勝連城。
進貢船(しんこうせん。中国の王朝との交易や使節派遣のための船のこと)によく似たその形から「進貢船のグスク」とも呼ばれているが、この異名は交易が盛んだった勝連城のことをうまく表現している。
いまだに四の曲輪を中心に発掘調査が進められている段階ではあるが、沖縄有数の規模と歴史をもつ名城だ


勝連城で最も高い場所にある一の曲輪(くるわ。城郭内にある区画のこと)は、標高約98メートルで、南は知念半島から北は山原(やんばる)までを見渡すことができる。勝連城からの眺めはとても美しい。
北の金武湾、南の中城湾に挟まれた勝連半島に築かれた勝連城は、まるで海に浮かんだ城のようにも感じられる。
脈々と続く沖縄の山並みが視界に広がり、訪れた人の心を奪う。
⬇こんな感じで・・ 心を奪われます (笑)

勝連城は、琉球石灰岩の切石を使い、東西の丘陵をうまく利用して曲線状の城壁が築かれている。正門である南風原御門(はえばるうじょう)と、裏門にあたる西原御門(にしはらうじょう)という2つの入り口がかつてはあったが、その名前は門の方向にあった集落の名前から付けられている(各門はまだ復元はされていない)。
御門を抜けると、居住スペースである四の曲輪が広がっている。そして、四の曲輪から西に向くと絶壁のような城壁に囲まれた三の曲輪、二の曲輪、一の曲輪がある。四の曲輪の東には、防衛部隊が詰めていたと考えられる東の曲輪があったようだ。
勝連城のはじまりは13世紀頃と考えられる。中国製陶器が発掘されたり、防御施設である柵列が見つかったりしており、この辺りに多くの人々が居住し、指導者がいたことがうかがえる。
城主として最も有名なのは、最後の按司となる10代目の阿麻和利だ。彼は肝高(ちむたき。英雄のこと)として人々に讃えられた名君で、増築を繰り返すなどして、勝連城を現在の姿まで発展させた。

今なお、英雄として高く評価されている阿麻和利には、名君としての逸話が多い。城主としての阿麻和利が推し進めたのが貿易だ。
螺鈿(らでん)細工に使用する貝の輸出や、中継貿易の拠点として活動し、莫大な富を築いたと考えられている。
注目すべきは、一の曲輪の宝物庫、二の曲輪の舎殿から、大和系・高麗系の灰色瓦が出土していることだ。本土や中国大陸から技術導入した可能性もあるが、おそらく輸入したものと考えられる。
沖縄のグスクで瓦が出土しているのは首里城と浦添城と勝連城だけで、王城に匹敵するほどの経済力や軍事力を持っていたという証なのだ。
こうして勢力を伸ばした阿麻和利を恐れた琉球王国の国王、尚泰久(しょうたいきゅう)は、名将として知られていた護佐丸(ござまる)を中城に派遣して、防波堤の役割をさせた。そして、自らの娘の百度踏揚(ももとふみあがり)を嫁がせる。
しかし、若き阿麻和利の野望は止まらず、護佐丸の中城城を滅ぼし、さらには首里攻略の準備を進めた。この動きを察知した百度踏揚は、命からがら勝連城を脱出。首里城に危急を知らせ、首里軍と勝連軍による籠城戦が繰り広げられることになるが、勝連軍は遂に陥落してしまう。
この伝説には諸説あるが、史料は残っていない。ぜひ一の曲輪に立って、歴史上の登場人物たちの思いを感じてみてほしい。

⬇歴史上の登場人物?

勝連城跡