●意富比垝(おほひこ)
本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。
前稿となる「讃岐国造から考察 ②」からの続きとなります(´・ω・`)ノ
今回は讃岐国造となった鷲住王の正体に迫るべく、更に別の角度からも考察して参りたいと思います。
大彦命(おおひこのみこと/おおびこのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。
『日本書紀』では「大彦命」、『古事記』では「大毘古命」と表記される。また稲荷山古墳出土鉄剣の銘文に見える「意富比垝」に比定する説がある。
第8代孝元天皇の第1皇子で、第11代垂仁天皇の外祖父である。また、阿倍臣(阿倍氏)を始めとする諸氏族の祖。四道将軍の1人で、北陸に派遣されたという。
●系譜
第8代孝元天皇と皇后鬱色謎命(うつしこめのみこと、内色許売命)との間に生まれた第1皇子である。同母兄弟として開化天皇(第9代)、少彦男心命(すくなひこをこころのみこと、少名日子建猪心命<すくなひこたけゐこころのみこと>)、倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと、古事記なし)がいる。
子として『日本書紀』では御間城姫(みまきひめ、御真津比売命:第10代崇神天皇皇后)、武渟川別(たけぬなかわわけ、建沼河別命)の名が、『古事記』では加えて比古伊那許志別命(ひこいなごしわけのみこと)の名が見える。御間城姫は垂仁天皇(第11代)の生母であり、大彦命はその外祖父になる。
●考古資料
埼玉県行田市の埼玉古墳群にある稲荷山古墳で出土した鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)には銘文があり、その銘文に見える人物の「意富比垝(おほひこ)」を大彦命に比定する説が挙げられている。銘文記載の系譜は次の通り。
(wikipedia 大彦命より抜粋)
こちらについては、上の考古資料の項にある、埼玉県行田市の5世紀後半の稲荷山古墳から出土した稲荷山古墳出土鉄剣に刻された銘文にある「意富比垝」のことであるとの説があります。
◆稲荷山古墳出土鉄剣
◆稲荷山古墳出土鉄剣刻銘文
仮に、意富比垝=大彦命で、この5世紀後半の被葬者の乎獲居臣がその7代孫であった場合、第8代孝元天皇と皇后鬱色謎命との間に出来た第一皇子の大彦命は、天皇代でいうところの9代目時代の人物となり、単純に代を合わせますと、乎獲居臣は16代仁徳朝の人物に比定ができます。
ちなみに讃岐國寒川郡には、大彦命をお祀りする式内社 布勢神社がありますね。
◆香川県さぬき市寒川町石田西乙3642
◆布勢神社
(´・ω・`)ほぉほぉ、讃岐国「寒」川郡ですか。そして難波郷の近くですな。
鉄剣の出土した稲荷山古墳は、今話題の大仙古墳と墳形が類似していることが指摘されており、大仙陵古墳を4分の1に縮小するとほぼ稲荷山古墳の形になります。
◆稲荷山古墳(築造時期:5世紀後半)
伝仁徳天皇陵とされる大仙古墳は、採集されている円筒埴輪や須恵器の特徴から、古墳の築造期は5世紀前半~中期のものとされており、また、前方部埋葬施設の副葬品は5世紀後期のものと考えられています。
その規模からも、古墳築造に着手してから完成するまでは相当な年月を要したものと考えられます。
つまり、大仙古墳(伝仁徳天皇陵)の被葬者と、稲荷山古墳の被葬者はほぼ同時代に生きた人物であった可能性が高く、またその築造完成期から、稲荷山古墳の方が完成が若干遅かった可能性が高いでしょう。
ということは、鉄剣に刻まれた大王獲加多支鹵の方が稲荷山古墳の被葬者より先に亡くなっている確率の方が高いですね。
「記紀」での大彦命の活躍は、『古事記』崇神記において、三輪の大物主の子である鴨君の祖先の意富多々泥古の説話や御真木入彦(崇神天皇)の命による建波邇安王の鎮圧の説話等と同じくして書かれています。
この崇神天皇の皇居が、「記」師木水垣宮、「紀」磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)で、乎獲居臣の時代においても、稲荷山古墳出土鉄剣の刻銘文からは、「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」「獲加多支鹵大王の寺シキの宮に在る時」とあり、これらが同所の可能性も大いに指摘できるでしょう。
仮に天皇系譜と鉄剣銘文(意富比垝=第8代孝元天皇の第1皇子大彦命)の系譜を並べて見ますと、
①天皇系譜
②鉄剣の銘文系譜
う~ん、応神天皇と迦具漏比売との間の皇子である、久奴王こと堅石王と獲加多支鹵大王とがピッタリと合いますね。
ということは、仁徳天皇の代と同世代ということになります。
これを忌部氏系図及び別の天皇系譜にしますと、
③忌部氏系譜
④天皇系譜&鷲住王の系譜
上図①にあるように、15代応神天皇の代で、須賣伊呂大中日子王(景行天皇の曾孫)&迦具漏比賣命親子が同世代内の天皇妃になっていることから、かならずズレが生じるようになっています。(ここがミソ)
また①と③は同型の系譜配置となり、16代仁徳代の堅石王と堅田主命、及び獲加多支鹵大王(わくかたしろ大王)と鷲住王も一致します。
これまでの私説考察において、「記紀」での須佐之男命は、何れの代においても自身に比定ができるようにループで描かれていますので、実のところ本当はどの時代の人物であるかの特定が非常に難しいのですが、これまでの考察から、須佐之男命はやはり須佐之男命であり、世代を経た須佐之男命の分身=世々引き継がれてきた皇御孫(すめみま)、つまり連綿と系譜する天照大御神の皇孫(こうそん:邇邇芸命)を投影させ記し続けているのではないでしょうか
つまり須佐之男命と鷲住王は厳密には別人物であり、この考え方でいえば、その時代の「今上天皇」ということになります。
同時に須佐之男命は、実際は卑弥呼の生きた時代となる3世紀の人物であると考えられ、また、鷲住王は5世紀後半頃まで生きた、直系の同族(即ち天皇)の大王(倭の五王の一人)であるとも考えられるのです。
従って「真」の鷲住王は、応神天皇もしくはその子である仁徳天皇(に比定できる人物)の可能性が浮上します。
鷲住王が「讃岐国造」であった時代は、応神天皇の行宮であった難波大隅宮があり、また、即位後に難波高津宮に居を構えた仁徳天皇が居た時代です。
もちろんその後代の履中天皇の義兄にもなることから、鷲住王は3世代に渡って存在した人物であると考えられます。(あくまで記紀によればね)
難波郷は確かに香川県に存在し、そして大阪府にも難波が存在します。
一つの考察方として、応神朝時代の宮である讃岐の難波から、仁徳朝時代の宮である摂津の難波に皇居を移した…という考え方も出てきますね。
◆摂津國難波
そして、履中紀には鷲住王は、
「是讚岐國造・阿波國脚咋別、凡二族之始祖也。」「讃岐国造・阿波国の脚咋別、凡二族の始祖です。」
…とあり、凡二族の「始祖」とも書かれています。
多氏(おおし/おおうじ)は、「多」を氏の名とする氏族。
日本最古の皇別氏族とされる。「太」「大」「意富」「飯富」「於保」とも記され、九州と畿内に系譜を伝える。
●概要
皇別氏族屈指の古族であり、神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされる。 (wikipedia 多氏より抜粋)
神八井耳命(かんやいみみのみこと、生年不詳 - 綏靖天皇4年4月)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。
初代神武天皇の皇子、第2代綏靖天皇の同母兄で、多臣(多氏)及びその同族の祖とされる。
◆系譜
『日本書紀』によれば神武天皇(初代天皇)と、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと。事代主神の娘。)との間に生まれた皇子である(ただし『古事記』は母親を伊須気余理比売命(いすけよりひめのみこと。大物主神の娘。)とする)。
『日本書紀』では、同母弟に神渟名川耳尊(神沼河耳命、第2代綏靖天皇)を、『古事記』では加えて同母兄に日子八井命(日本書紀なし)の名を挙げる。
◆墓・霊廟
墓は不詳。『日本書紀』では、神八井耳命は「畝傍山北」に葬られたと記されている。畝傍山の北に所在する八幡神社(奈良県橿原市山本町152)社伝では、同社は神八井耳命の墓の所在地であるといい、古くは「八井神社」と称されたとする。
また、多氏の氏神社である多坐弥志理都比古神社(奈良県磯城郡田原本町)、その末裔の皇別の志貴県主の総社で式内社である志貴県主神社(大阪府藤井寺市)を始めとする諸社で、命の霊が祀られている。(wikipedia 神八井耳命より抜粋)
多氏の始祖は初代神武天皇の子である神八井耳命となっており、凡(おほし)=多氏であったと仮定した場合、これまでの考察から仮に神武を鷲住王に比定すると、やはりここでも1世代ズレていることになります。
そして神八井耳命のお墓があるとされる畝傍山ですが、私説では、これを徳島市の眉山に充てています。
※畝傍山については「安寧天皇から考察」
神八井耳命のお墓があるのが山の北側ですからおおよそ法谷寺周辺かな
この辺りには霊園も多く、googlemapで上空から確認しても周りは古墳だらけとなっていますので特定は難しいですね。(確かめてみてね)
神武の子なので神武の墓である畝傍山東北陵とは程近い場所にお墓があることになりますが、例の一代ズレての同神の説を採用するならば、数世代の人物を一人の人物の事績としてまとめたと考えるべきか、眉山そのものを「天皇=神」の御陵として考えているのか考察方に迷うところです。
今回の「一代ズレ理論」を系図にしますと、
想定系譜からは、今回の考察にあるズレる人の起点対象である栲幡干千姫命と、大物主神/事代主神の娘である媛蹈鞴五十鈴媛命も同神の可能性を持つことになります。
つまり堅石王=神八井耳命を、応神の「子」で描かれる仁徳とするのか、応神が世代を跨いでの「分身」=仁徳とするのかの考え方を神武代のバージョンに置き換えたケースとなります。
系譜にするとほんまに面倒くさいな…
まぁ同神考察を当て嵌めていくと、このような感じになるということです。
また別な考え方として、「記紀」にある応神天皇の説話が、実は卑弥呼が活躍した3世紀中頃の話の可能性も指摘できます。
先程の同神人物を比定される時代に分離させた形ですね。
応神記には、「又昔、有新羅國主之子、名謂天之日矛、是人參渡來也。」「また昔、新羅の国王の子ありき。名は天之日矛といふ。この人参渡り来ぬ。」の「また昔」とあるように、あくまで物語は須佐之男命&天照大御神の説話の連続を記しているとも考えられ、そこに当時の中国や朝鮮の歴史書等から得た周辺諸外国の情報を取り入れ、水増しした天皇代を比定照合させる工作を施した可能性も十分に考えられます。
これはあくまでも現時点における私説考の一つ(仮説)ですので、今後更に歴史の解明が進めば、また違った有力説が出現するかも知れません。(例の世界一デカい古墳は「真の鷲住王」のお墓の可能性もありますってことね)
次に考古的見地から考察を進めて参りますと、
石野博信氏が今年4月に出版した「邪馬台国時代の王国群と纏向王宮」
書の、中平銘鉄刀について書かれた部分によれば、「中平」とは中国の漢の時代の年号の一つで、卑弥呼が女王となったとある「光和」178年~183年、その次が「中平」の184年~189年にあたります。
東大寺山古墳(とうだいじやまこふん)は、奈良県天理市櫟本町にある古墳。形状は前方後円墳。出土品は国宝に指定されている。
古墳時代前期中葉にあたる4世紀後半頃の築造とされ、副葬品の中には24文字を金象嵌で表して「中平」の紀年銘を持つ鉄刀がある。
●概要
天理市和邇(わに)から櫟本(いちのもと)にかけては、和邇氏族の拠点であり、関連一族が築造したと推定される古墳が平野部との比高差約70メートルの丘陵上に点在している。その一つが本古墳である。 (wikipedia 東大寺山古墳より抜粋)
◆中平年銘鉄刀
この刀が奈良県天理市東大寺山古墳から出土したもので、漢の皇帝が倭に新しく女王が立ったことを聞いてそのお祝いに作って贈った刀の可能性があり、これが大和の地から出た訳ですから「大和が邪馬臺国」で決まりということに…とはならず、必ずしもそうなっていないのは、この古墳が4世紀中葉の古墳だからだ。とあります。
つまり鉄刀が製作されてから150年も経ってから墓に入れられたことになります。
鉄刀が中平年間に作られたことは確かだとしても、その刀がいつ倭に到来したのかは不明であり、その上墓におさめられたのは四世紀後半である…と綴っています。
お祝いの刀ですから、当時直ぐに届けられたとしても、その最終的な所有者の古墳年代が150年以上も時代が下ることになり、単純に権力者(王族)の子孫やその家臣が後に戴いたものであったと仮定しても、持って運べるものに違いはなく、最終的に所有し亡くなった場所が4世紀後半の奈良県であったことに過ぎません。
或いは別の場所にあった元のお墓から150年後に当地に移設された可能性もあるでしょう。
簡単に言えば、埋葬物と埋葬者、埋葬地の年代や場所は必ずしも一致しないという証明ですね。
また同書には、邪馬臺国大和説をとる氏は、纏向遺跡をその候補地としていますが、卑弥呼の時代の土器の検討に従来の厚型(3~5㎜)の土器とは別に、1~2㎜の薄型最新土器である纏向式土器に注目し、その分布を調査。
しかしながらその分布は、奈良県においては桜井市北部、天理市南部までのたかだか10㎞四方の非常に小さい範囲が使用地域である。
他地の調査では、葛城地域や明日香村付近で2~5%に過ぎない。逆に奈良市域や葛城地域の人たちは95%が伝統的な鍋を使っているという結果に。
主に薄鍋を使っているのは、八尾・東大阪の人たちだけであって、北側の枚方、南側の富田林・羽曳野・和泉、淀川を越えて高槻・神戸もみな厚鍋を使い続けているという分布特色がある。
次に、纏向土器を50%~60%持っている地域に線を引いてみると、その中に初期の長突円墳(前方後円墳)が全部入ってしまった。「これはなんだ」というのがはじまりであった。
纏向式土器の分布地域を調べますと、不思議なことに北部九州博多湾岸から福岡県沿岸部が最も多い地域で、大和との中間地では基本的に少ない。広島県東部でやや増加し、山陰地方鳥取県の西部、出雲中部に若干の中継地がある。
一方、福岡県では少なくとも40か所近く存在し、近畿系の人が博多湾に数多く移住していたことがわかる。
博多湾の国際交易都市である西新町遺跡には、朝鮮半島系、地元系、近畿系土器がそれぞれ3割ずつ見つかっていることから、国際貿易に携わっていたことが十分考えられる…と綴っています。
◆纏向型土器の分布
やはりここが古の魏志倭人伝にある九州北部にあった奴國なんでしょうな。
段々書くのが面倒くさくなってきたので貼っていきますね笑
これ等を記する前の項には、
阿波・土佐における纏向式土器について触れており、海陽町にある芝遺跡からは、在地系18%に対し、纏向河内型20%もあり、また物部川流域の各遺跡からは3、4世紀の纏向河内型甕が散在すると記しています。
◆芝遺跡の土器比率
更に畿内系土器の搬入品は圧倒的に河内産纏向甕で際立っているとし、この傾向は三世紀の纏向式土器段階に限られ、四世紀の布留式土器の段階になると、土佐の畿内系土器は希薄になる。
つまり邪馬台国時代の土佐と太平洋ルートの位置が反映されており、四世紀の大和政権は危険な太平洋ルートではなく、日本海・瀬戸内ルートを安定して通行できるようになったということであろう。…と記しています。
土器の動きは人の動きということ(´・ω・`)
邪馬臺国畿内説の場合は到着するまでがエキストラハードモードですなぁ。
そして、奈良県にある纏向型土器を使用していた範囲にある初期の長突円墳(前方後円墳)、要略しますとその祖型が、
阿波・讃岐の集団のものであり、ホケノ山古墳の出土物から鑑みるに、
被葬者を阿波・讃岐出身者と推定したとあります。
詳しくはちっこい文字を読んでみて下さい。(あと、オッサンの手は気にしてはいけない)
つまり、3世紀(邪馬台国時代)の纏向型土器の移動ルートを辿ると、一般的には航行が危険といわれている四国南岸ルートが主流であることを示しています。
◆3世紀の太平洋航路(四国南岸ルート)
氏は纏向遺跡が3世紀後半に破棄されていることや、箸中山古墳(箸墓古墳)についても触れており、周濠底部から出土する土器が3世紀末~4世紀前半の纏向5類(布留1式)で、新しくみても4世紀前半であるとし、木製鐙が同土器と一緒に出たことを確認している。乗馬の風習は従来5世紀になってからというのが考古的常識であったが、4世紀初頭だととんでもないことだとしています。
乗馬の起源を遡れる貴重な資料ではあるものの、周濠からの出土物は卑弥呼の墓とするには時代が新しいモノですね。確か魏志倭人伝によりますと、邪馬臺国には馬がいないとあったはずですが…。
続けて、また3世紀後半から末の築造の箸中山古墳があることは纏向王宮に住んでいた人が葬られた可能性があるとし、箸中山古墳は卑弥呼の墓であって三世紀の中頃だと主張する考古学者が多いが、もし箸中山古墳が卑弥呼の墓だとすると、卑弥呼は247~8年に亡くなっており、全長280mの墳墓を作るのに10年ぐらいかかるだろうということで、都出比呂志氏、白石太一郎氏は箸中山古墳を260年ぐらいの築造と考えているらしい。しかし私は箸中山の築造を280年くらいと考えている。
想定築造年からは卑弥呼の墓とするには新しく、つまり被葬者は次代の台与の墓と推定しているようです。
さすが考古学視点の見解はなかなか面白いですねぇ。
そして、私が上記を踏まえて推測しますと、当初太平洋南部ルートを確立していた阿讃の海人族が丁度大和へと進出した時代だった痕跡ではないかと思うのです。
つまりこの痕跡からも、当初土佐・阿波の海人族は、朝鮮半島から北九州経由で太平洋に向かうルートを確保しており、そこから畿内域へと進出していった。
上の四国南岸ルートの図にもあるように、「中心」となるのはむしろ四国であって、その行き着いた先が大和である。
その証拠であるように、現在でいうところの人とモノが集まる地の中心である東京(首都)と同じで、徳島県海陽町の芝遺跡からは、在地系よりむしろ他地域からの流入品の方が多く、畿内系纏向土器の流れからも四国南岸が当時先行して発展していたと考えられます。
後に4世紀頃から、それまで危険であった瀬戸内ルートの安全が確保されたことにより、通行が可能となった。
氏との見解の違いは、これを在地の大和の人と想定するか、そうでないかの違いで、そこの補足が氏の記している、積石塚前方後円墳の推移に見える阿波・讃岐の海人族の畿内域への進出なのではないでしょうか
そもそも奈良県には海がありません。
海を渡って来た海人族が朝鮮半島等の大陸側から入り込み、日本列島を沿うように東へ東へと進出していった。
連綿と流れてくる渡来人、そのルートを確保していたのが四国の太平洋側の海人族だったのではないでしょうか。
う~ん、なんとなく魏志倭人伝の魏使の通過したルートがわかってきたような気がしますねぇ。
つまり、鷲住王は瀬戸内ルートを確保するために「讃岐」という地を抑えなければならなかった。
当時の瀬戸内ルートの掌握とその先(東側)にある畿内域における物資の独占が考えられます。
いわゆる大陸から海路で輸送される様々な「物」の掌握です。
本土側では、瀬戸内海北岸側となる山陽道の安芸・吉備・播磨が重要な位置を占めますが、瀬戸内海南岸側となる四国側ではこれが伊予・讃岐となり、その東側となる畿内域に進出するためには、讃岐という地は打って付けの地理上の位置となっています。
「記紀」の仁徳条にある阿波-讃岐から淡路(仁徳朝に矢口足尼を国造とする)に痕跡が伺え、それが現在の大阪難波に繋がるのであれば尚更で、淡路を起点に海洋ルートを確保すべく畿内進出への足掛かりとしたと考えた方が納得できます。
●大陸から畿内に至るまでの想定航路
私説においては、鷲住王=須佐之男命(=天照大御神:卑弥呼の弟)の観点から、これを3世紀頃の話と想定しています。
高地性集落の推移を見て見ますと、
①高地性集落第2次(紀元前6世紀~紀元前5世紀頃) 瀬戸内、近畿、九州北部にまばらに出現する。
②高地性集落第3次(紀元前5世紀~紀元前2世紀中頃) 東部瀬戸内、西部瀬戸内、近畿を中心に広がる。
③高地性集落第4次(紀元前2世紀中~紀元頃) 東部瀬戸内、近畿が中心。近畿の高地性集落が増加する。
④高地性集落第5次(1世紀~3世紀終末) ・近畿の高地性集落が内陸に展開する・西部瀬戸内で再び増加。しかしながらすぐに消滅。という特徴を持つ。
これらの高地性集落の位置からも、ただ高いところに住んでいたのではなく、自身にとっての敵から身を守るため、また敵をいち早く察知する最前線であったと認識するラインでしょう。平たく言えば国境です。
九州だけに注目してみますと、時代を経るごとに南下していますね。
また別のサイトから見て見ますと、
第4次(卑弥呼が居なかった時代)
第5次(卑弥呼の存在した時代以降)
(縄文と古代文明を探求しよう!より)
どこを中心に巨大国家が発生し、それぞれの国々が団結・連合し、結果どこが安全になり、前線が強化・移動したのか、そしてこれが後のヤマト王権へと繋がるのか、図を見れば自ずとわかるのではないでしょうか。
…という訳で、今回の考察はここまでとしておきますね(´・ω・`)ノ
(;´Д`)相変わらず中途半端やな…