猿投神社(さなげじんじゃ)は、愛知県豊田市にある神社。式内社、三河国三宮で、旧社格は県社。猿投山の麓に鎮座する。

 

 

 ◆主祭神 大碓命

 

 ただし大碓命が主祭神とされたのは近世以降で、それ以前は猿田彦命、吉備武彦、気入彦命、佐伯命、頬那芸神、大伴武日命など諸説があった。元々は猿投山の神を祀ったものとみられる。

 

 ●創建

 『日本書紀』には、大碓命は景行天皇に東征を命じられたが、これを恐れて逃亡したため美濃国に封じられたとある。宝亀10年(779年)に編纂された縁起書によれば、大碓命は景行天皇52年に猿投山中で蛇毒のために42歳で死去し、山上に葬られたという。猿投山西峯にある西宮の背後に大碓命の墓がある。

 社伝によれば、仲哀天皇元年に勅願により現在地に創建されたという。

 

 ●概史

 国史の初見は、『日本文徳天皇実録』の仁寿元年(851年)10月7日条、従五位下の神階を授けるという記述である。『延喜式神名帳』では「参河国賀茂郡 狭投神社」と記載され、小社に列している。また、三河国の三宮とされたという。建治元年(1175年)には最高位の正一位に達した。

 

 ●信仰

 古来より「左鎌」を奉納して祈願する習慣がある。由来は不詳であるが、古老の伝によれば、双生児は一方が左利きであり、祭神・大碓命は小碓命(日本武尊)と双生児であったので左利きであるとされ、大碓命が当地の開拓に使ったであろう左鎌が奉納されるようになったという。現在では、左鎌をかたどった板が奉納されている。(wikipedia 猿投神社より抜粋)

 

 ということで神紋は「左鎌」

 

 wikipediaにも書かれてありますが、『日本書紀』によれば大碓命は、景行天皇に東征を命じられた際、恐れ草むらに逃げ隠れたため、美濃国に封じたとあります。

 また『古事記』では、三野国造の祖 大根王の娘二人と密通し、天皇には別の女性を献じたとあり、後ろめたさから朝夕の食膳に出てこなくなったため、小碓命に「ねぎし教えさとせ」と命じたのを勘違いし、大碓命の手足をもぎとって薦に包んで投げ捨てたとあります。

 

 これ等の話は、国譲りの際の諏訪に封じられた建御名方神の説話や天皇が娶るはずの女性を奪ったことにより殺されたとある履中天皇時の墨江之中津王、義兄弟とされる鷲住王が住吉邑から召還に応じなかった説話等とも類似します。

 

 ●諏訪大社のある信濃国

 

 

 ●大碓命が封じられた美濃国

 

 

 ●大碓命をお祀りする猿投神社のある三河国

 

 

 全て一応大和国からすれば東国であり、しかもそれぞれが隣接しております。

 

 さて、全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社とされる信濃国一宮である諏訪大社の御神紋は「梶の葉」。

 

 

 

 しかしながら諏訪大社には、諏訪信仰の象徴である「薙鎌(なぎがま)」を打ち込む、「御柱本見立て」の神事があり、背中に切り込みのある子持勾玉のような形で、この薙鎌打ちの神事により、巨木は初めて御柱(おんばしら)というご神木になるとされています。

 

 

 

 

 ●滑石子持勾玉(五色塚古墳から150年下る6世紀のもの)

 

 

 一方、阿波国には、

 

 多祁御奈刀弥神社(たけみなとみじんじゃ)は、徳島県名西郡石井町浦庄字諏訪213-1に鎮座する神社。

 

 

 ●歴史

 創建年は不詳。現在の社殿は1720年(享保5年)に建築された。

 徳島藩主である蜂須賀家からの尊崇が高く、御例祭の際には参拝・代参していた。 1627年(寛永4年)には蜂須賀光隆が祈願し奇瑞を著した。また、蜂須賀氏が参拝の際は、鮎喰川の出水に遮られることがあるため、徳島城から近い諏訪神社に分霊したとも伝わる。

 

 ◆祭神 建御名方命 八坂刀売命 (wikipedia多祁御奈刀弥神社 より)

 

 …と例の如く阿波のこととなると途端にwikipediaでは素っ気無く記されてはおりますが、チョット調べて頂きますれば、

 

 

 社伝によれば、信濃諏訪郡南方刀美神社(現 諏訪大社)は、奈良時代の宝亀10年(779年)、当社から移遷されたもの、つまり当社が”元諏訪”であることがわかります。

 当時の諏訪大社は、「南方刀美神社」と言われており、阿波からご祭神が移されてきたことが伝えられているという。

 当地名西郡は、名方郡(なかたのこおり)を東西に割いた名残であり、祭神である建御名方命の神名の面影を残します。

 

 神紋は「鎌の打ち合い」

 

 

 一般には「お諏訪さん」又は「東の宮」と呼ばれています。

 

 通説では事代主命を兄、建御名方命を弟としていますが、実は『日本書紀』には登場せず、『古事記』では我子八重言代主神」「亦我子有建御名方神」つまり私の息子と言っているだけでどちらが兄弟の兄であるとかの明確な記載は見られません。

 

 『先代旧事本紀』「地祇本紀(地神本紀)」では大己貴神(大国主)と高志沼河姫の御子神とされ、事代主神を生む神屋楯比売命より、実は先に沼河比売を娶っていますので、普通に考えれば建御名方神の方が兄であろうと考えられます。「wikipedia:タケミナカタ(まぁ弟神でも別にいいんですが笑

 

 また、兄弟神の戎(えびす=事代主命)ですが、えびす宮の総本社とされるのは兵庫県の西宮神社で、一般的には福の神としてお祀りされており、毎年恒例の福娘福男は有名ですね。

 

 

 

 ご由緒を見ても、鎮座年代は明らかではなく、平安時代後期の文献に記載が見られるのみですが、阿波国においてはえびすを祀る社は延喜式神明帳に既に2社見え、阿波市市場町伊月に通称「おいべっさん」こと事代主命神社がご鎮座します。

 

 また、延喜式に掲載されるもう1社、えびす生誕の地名「生比奈」が残る、生夷神社(いくいじんじゃ)が勝浦町にご鎮座することから、「えびす」こと八重事代主命は、阿波国出身の神であることに異論の余地はないでしょう。

 勝浦町の奥には「八重地」の地名も残りますしね。(ということは真の出雲がどこにあったのかは想像ができますネ?


 つまり、兵庫県にある西宮神社もこの阿波国から移されたであろうと考えられ、多祁御奈刀弥神社の西隣に位置する鴨島町には、

 

 敷島神社(しきじまじんじゃ)は、徳島県吉野川市鴨島町敷地に鎮座する神社である。

 

 

 ●歴史

 創立年は不詳。古くは西宮八幡宮と称していた。1909年(明治42年)に河辺八幡神社ほか五社を西宮神社に合祀。社殿を新築し新たに敷島神社と改称

 合祀された河辺(神戸)八幡神社には、式内社である天水沼間比古、天水塞比賣神神社に比定せられた「天足祠」を合祀していた。

 

 ◆祭神 応神天皇 神功天皇 仲哀天皇 仁徳天皇 玉依姫命 伊弉諾尊 大山砥神 酒解子神 酒解神 大若子神 小若子神 木々能治 事代主命 蛭子命 國紀別命 水波女神 大己貴神 天水沼間比古神 天水塞比賣神(wikipedia 敷島神社より)

 

 合祀されまくってワケワカメの状態、しかも何もかも八幡社にされているのが阿波の現状ですが… 

 要するに、「東の宮」=建御名方神、「西の宮」=事代主命で「兄弟」でお祀りされていることになります。

 

 これを踏まえまして、上記にある猿投神社の神紋である「左鎌」は、左右で一つであったと考えられ、二つの鎌の左側、即ちこれが大碓命を意味し、双子の弟小碓命とで一対のもの、つまり右側が揃うと「鎌の打ち合い」となり、『古事記』の説話にある兄弟同士の諍いがあったことの暗示であるとは考えられないでしょうか?

 

 また『出雲国造神賀詞』では、高御魂命が邇邇芸命に地上の支配権を与えた時、出雲臣遠祖の天穂比命が国土を観察し、再び天に戻って地上の様子を報告して、天夷鳥命に布都怒志命(経津主神)を副えて派遣したとされています。

 これが兄弟神として描かれている国津神側では建御名方神&事代主命と、天津神側では建御雷神&経津主神がそれぞれが相対しての関係性であると考えられます。

 要するにテンプレとして、常に二神(ここでは兄弟)がセットなのでしょう。

 

 さて、『日本書紀』によれば、大碓命は神骨(かむほね、美濃国造)の娘の兄遠子・弟遠子姉妹を(密通で)娶っており、結果としてその妻の故郷となる美濃国に封じられたはずですが、江戸時代中期の尾張藩の国学者である天野信景の随筆『塩尻』巻之二十五によれば、

 

 「三州加茂郡高橋庄狭投神社大碓命といへり。 大碓皇子は景行天皇の御宇牟義公阿蘇首池田首の始祖也。 然るに大碓皇子登狭投山中蛇毒薨ずと本縁あるに、日本武尊登胆吹山と同し。 然れば狭投神社亦日本武尊に似たり。 度会延経云、御使朝臣の祖、景行天皇皇子気入彦命なり。 三河国に使し賊を捕ふ。 仍て姓を賜はる、続日本紀及び姓氏録に見ゆ。 若此命を祭るか、大碓皇子は美濃国牟義の祖なり、三河国に故あること見侍らずといふ。 亦狭投摂社十五所は大概日本武尊御子を祭れり。 亦旧記を考ふれば、日本武尊御子佐伯ノ命、三河国御使の祖なるよし見えたり、よく思ひを致すべきかも。」

 …と記されており、また尾三郷土史料叢書 第6編には、

 

 猿投神社の「社説に云、狭投の神は忍代別天皇皇子大碓ノ皇子なり、五十二年登狭投山中蛇毒薨 四十二歳、則葬山上、在峯之宮、西宮東之宮と云」

 …ともあり、猿投神社奥の猿投山には大碓命の墓が存在します。

 

 

 チョットおかしいと思いませんか(´・ω・`)?

 美濃国に封じられたはずの兄大碓命が、何故か弟小碓命と事績が類似するかのように山上で毒気(蛇毒)に合い、その結果、封された国とは異なる別地の三河国山上で薨じているのです。

 

 そこでまたもや徳島県海部郡牟岐町の説話に出てくる兄弟の話に戻り、牟岐町ふるさと探訪及び牟岐村神社明細帳で確認しますと、ひひ猿を倒した「兄」を祀る高知神社の祭神は、大雀命(仁徳天皇)。

 

 

 

 一方、ひひ猿を倒した「弟」を祀る高知神社も祭神は、大鷦鷯命(仁徳天皇)。

 

 

 

 何と兄弟二人共々同じ祭神、しかも仁徳天皇ですね。

 

 また兄弟に退治された「ひひ猿」を祀ると伝わる山王神社(サンノッさん)。

 

 

 当社同名の神社が明細帳からは確認できませんが、当橘地域には山神社が四社もあり、いずれも祭神は大山祇命。恐らく当社と思われるところには大山咋命も。

 

 

 また、兄の「嫁」だった玉姫が身投げしたというクロン渕。

 

 

 こちらの玉姫神社で祀られているのは海版の姉妹神の「妹」にあたる玉依姫命。

 

 

 隣町海陽町にある室比賣(阿津)神社や池姫神社の昔話と似た悲話が伝わりますね。

 海陽側は山版、牟岐側は海版といったところでしょうか。

 

 地図にするとココ

 

 この昔話は旧牟岐村橘地域のお話ということですね。

 

 …ということで、更に牟岐町にはもう一つ、面白い昔話「姫神伝説」をご紹介します。

 

 『昔、土佐の国のある豪族に美しい姫がおりました。年頃の娘には将来を約束した男があり、二人の仲は大変睦まじく、郷中の評判でした。

 しかし男は非常に才能豊かな人間で、帝に召されて京にのぼることになったのです。二人は再会を固く誓い合って別れました。

 月日は流れ、任期の二年を終えてもどうしたことか男は帰ってきません。待ち焦がれていた姫は不安で居ても立ってもいられなくなり、遂に京に行く決心をしました。

 浪速に向かう民船のなかで恋人への思いを馳せる姫…。初めは無事な航海でしたがやがて海は時化模様となり、辛うじて大島の港に避難して天候の回復を待ちました。

 しかしどういう訳か時化は一向に回復しません。

 そのとき、一人の男が「コリャ、女を乗せとるサカイ、海神さまの祟りじゃ」と言い、船頭たちも同調して泣き崩れる姫を一人島に残したまま出港してしまいました。

 取り残された姫は悲しみに打ちひしがれ、やがて恋人の名を呼びながら、港の入り江に身を投げました。するとどうでしょう、そこから男性のシンボルにそっくりな巨大岩がむっくりと現れたのです。

 浪速からの帰路、大島に立ち寄った船頭たちはこれを見てびっくり仰天。早速祠を造り男性のシンボルの模型を奉納して姫の霊を慰めました。

 当時大島は避難港でしたので、風除けや潮待ちにこの島に立ち寄った船頭たちは模型を奉納して海上航路の安全を祈ったのです。』

 

 ●牟岐大島:珍宝岩(男根石)

 

 明治から昭和にかけて活躍した詩人 野口雨情の詠った、「沖の大島 姫神様は 通う船路の守り神」にもあるように、牟岐大嶋神社の奇祭「姫神祭り」は、昭和40年代に奉納の習わしを元に地域おこしの一環として誕生したとされます。

 

 位置はココ

 

 祭神は、クロン渕の祭神玉依姫命の「姉」にあたる豊玉日女命。

 

 

 

 

 

 

 

 これは単なるギャグ祭りではないんですよ笑

 

 岩利大閑氏著「道は阿波より始まる その二」にも、

 「阿南市橘町豊浜に鎮座する「海正八幡宮」は、弟橘比賣の海鎮めの故事にならい海上安全を祈る海人族の八幡宮です。」

 …と書かれてあるように、阿南市の海正八幡宮横にも弟橘比賣に由来する橘神社がご鎮座します。

 万寿年間(1024〜28)に、新羅三郎義光が内原町に建立した橘八幡宮を、1269(文永6)年に海正八幡社地に遷宮したようです。

 

 

 ここでも大碓の子押黒兄弟王の支配地である、阿南(美濃国)と牟岐(牟宜都国)とが、共通地名となる「橘」での縁由神事となります。

 要するにこれもちゃんと、元ネタがあるということです。

 

 実はこの牟岐町には、

 

 

 

 御崎神社では御崎=御前(妃)である弟橘姫命が、また三﨑神社と二所神社では夫婦でお祀りされています。

 

 そういえば川長(かわたけ)には関(せき)の地名がありますが、美濃国(岐阜県)にも同じく関市が御座いますね。

 

 また、偶然にも大島の北側には「水落」の地名も残ります。

 

 7代孝霊天皇の長女で、箸で陰部を突いて死んでしまった倭迹迹日百襲姫命の箸墓伝説と何と無く似ていませんかはてなマーク

 彦五十狭芹彦命(=吉備津彦)は弟ですし、彦狭島命や若日子建吉備津日子命は異母弟で描かれていますよね。

 

 更に言えば、桃太郎の説話の大元の元ネタも、この牟岐にある鬼(ひひ猿)退治ではないですかはてなマーク

 

 前回にも書きましたが、民俗的な昔話は時代を経ることで変化しやすく、内容の要点を推し量らねばなりません。

 とすれば、「姫神伝説」の説話中の「将来を約束したという京に上った男」は、海版では火遠理命、山版では邇邇芸命、箸墓伝説では大物主神のことで、この場合、京、即ち、=「みやこ」に上ったということではないでしょうか。

 

 これが当地牟岐では「京に上った男(=倭建命)」、そして海陽町宍喰では、「みゆきに剣を託して讃岐へと旅立つ鷲住王(=須佐之男命)」ということなのでしょう。

 剣を女性のもとに置いていく物語は、倭建説話の美夜受比売と全く同じで、須佐之男命が天照大御神に天叢雲剣を献上するお話とも相似します。

 

 また、牟岐の説話に再々登場する「高知や土佐」も、神社名にもある高智(=高地ともある)と記され、これが高千(穂)と河内(こうち・かわち)が繋がり、更にこれが伊予の人物が牛鬼を退治した彦狭嶋王(=伊予皇子)とも結びつくのです。

 

 この辺りは讃霊王(さるれお)のお話で説明が補足できると思うのですが、土佐から伊予にまでぐるりと巡るように、四国では倭建命が熊襲討伐後の帰り道に悪樓(あくるという巨大魚)を退治するお話があります。

 既にのらねこぶるーす氏が素晴らしい考察を記しておられますので、リンクを載せさせて頂きます。

 「倭建命と讃留王 ①」「倭建命と讃留王 ②

 

 牟岐の山王神社(サンノッさん)で祀られている「ひひ猿」も、讃岐ではサンノウ神社こと讃留霊王神社にてお祀りされているのは倭建命と大吉備建比売の子である建貝児王。

 牟岐の昔話で登場する役者は、山神社の祭神である大山祇命は木花開耶姫の「父」であり、またひひ猿で描かれる椿大明神こと猿田彦神=邇邇芸命は、火遠理命の「父」です。

 

 また建貝児王は、景行天皇 - 倭建命 - 建貝児王ですから、14代目となり、ひひ猿を倒した兄弟の祭神である大雀命こと16代仁徳天皇からすれば祖父の代に当たりますが、父応神天皇と仁徳天皇もまた迦具漏比売(黒日売)を共に娶っていることから同神もしくは親子での「●兄弟」とも考える説が御座います。

 世代がズレて記されるパターンは建貝児王の伝承にも見られますね。

 

 チョット纏めてみると、牟岐町で描かれる昔話は、

 

 「弟(小碓命)」の(前)妻が「姉」の豊玉比売(弟橘姫命)。

 つまり小碓命は火遠理命(=虚空津日子=山幸彦)

 

 一方、兄弟の「兄(大碓命)」の嫁が「妹」の玉依比売(木花開耶姫)

 つまりこの兄は邇邇芸命であり、これが鵜草葺不合命と同じということに。

 

 あくまで牟岐で描かれているパターンということですが。(文字数の都合でここでは多くは書きません笑

 

 倭建命は弟橘姫命を失った後、婚約していた美夜受比売から御食を戴き、生理の歌の後に結婚しますが、タイミングが合わなかったのか子の記載はなし。

 一方須佐之男命も御食を献上してもらった大宜都比売を殺しますが、天照大御神と宇気比(誓約結婚)をし、化身の子を得た(つまり実子ではない)話があり、また邇邇芸命の場合だと、石長比売とお別れし、木花開耶姫と結婚したが、やはり子は実子ではないという話になります。

 

 この繰り返される「実際は自分の子ではない」ルールに基づけば、系譜的には無限ループが可能となります。

 

 しかし、ここで抑えておきたいポイントは、類似説話の繰り返しであっても景行天皇から息子の倭建命に、更にはその子建貝児王へと時代を経るにつれ、後継氏族は四国を左回りに巡って書かれているということ。

 

 

 例に挙げますと、倭建命の父景行天皇の痕跡は、主に徳島市から阿南市周辺に多く見られ、私説においては倭建命と同神を疑う彦狭島命は別名が伊予皇子。

 

 また、同母兄の神櫛皇子は讃岐公(讃岐国造)、大碓命が身毛津君等祖(牟宜都国造=私説:現牟岐町が元)で、異母兄弟の稲背入彦皇子が播磨直祖(播磨国造=私説:現美波町が元)、豊国別皇子が日向国造祖(私説:現阿南市周辺が元)、武国凝別命は伊予御村別・和気公等祖。(名前が土佐国神の建依別と類似しますネ

 

 また、子の倭建命からは息長田別王(阿波君ら祖)、建貝児王(讃岐綾君の祖)、十城別王(伊予別君の祖)…等々。

 

 つまり、景行天皇とその子・孫達は、前記までに記した地名と照らし合わせますと、その殆どが四国ということになります。

 

 因みに景行天皇の後継となった13代成務天皇の妃は、郎女(おとたからのいらつめ)。

 

 ●阿波国勝浦郡託羅(現徳島県徳島市多家良町)

 

 キッチリ阿波のそれも長國側に痕跡を残しますね。

 

 この牟岐に眠る話は、実は倭建命と吉備津彦命の二つの説話の元ネタであると考えられるのです。(一応あくまで私説ではということで笑

 

 オマケ

 

 『古事記』上巻 大國主神の段

 

 「故顯白其少名毘古那神、所謂久延毘古者、於今者山田之曾富騰者也、此神者、足雖不行、盡知天下之事神也。」

 「少名毘古那を知っていた久延毘古(クエビコ)は、現在、山田の曽富騰(ソホド)といいます。この神は足は行かねども、尽に天の下の事を知れる神です。」

 …とあります。

 

 「ソホド」は案山子(カカシ)の古名で、当然ですが足で歩くことが出来ませんが、wikipediaによりますと、「案山子は「カガシ」とも呼ばれ、日葡辞書にもこちらで掲載されている。」…ともあり、カガシとは日本の古語で「蛇」を意味し、例えばヤマカガシは、「山の蛇」という意味となります。

 蛇に足無し魚に耳無しとも言いますが、勿論蛇は足を持ちません。

 

 つまり「ヤマダのソホド」は、

 

 山田之-曾富騰やまたの-おろちとなり、

 

 また、わざわざ足が悪いと記していますが、足悪の神といえば阿波においては船戸神のことで、wikipediaにも『「杖(ツエ)彦」が転じたものとも取れ、イザナギが黄泉から帰ってきた後の禊で杖を投げ出した時に生まれた船戸神(岐神、道祖神)との関連も考えられる。』 …とあり、阿波では足悪故に神無月に出雲へ行けずに地元に残る説話が多い。

 久延(クエ)彦、つまり咋(クヒ)彦で、「食う/喰う」は、割を食うや時間を食うなど、無駄に費やし遅れる時に使います。

 足が悪い、つまり「足を食う」ことで、これは脚咋(あしくい)であることを暗喩します。

 

 出雲には行かなくてもよい神という意味も、当地が出雲(いつも)であればよい訳ですからね。