●建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)

 

 

 本稿は、これまでの「応神天皇の痕跡から考察」シリーズから派生した別考察となっております。(´・ω・`)ノ

 

 ◆稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣

 

 

 稲荷山古墳出土鉄剣(いなりやまこふんしゅつどてっけん)は、1968年に埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣。1983年に同古墳から出土した他の副葬品とともに国宝に指定された。「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」とも称される(「金錯」は「金象嵌(きんぞうがん)」の意味)。

 

 出土した場所はこちら

 

 稲荷山古墳(いなりやまこふん、埼玉稲荷山古墳)は、埼玉県行田市埼玉にある古墳。形状は前方後円墳。埼玉古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定され(史跡「埼玉古墳群」のうち)、出土品は国宝に指定されている。

金錯銘を有する鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)が出土したことで知られる。

 

 

 ●築造時期 5世紀後半

 

 ●概要

 埼玉県第2位の規模の大型前方後円墳である。造営年代は、古墳時代後期の5世紀後半と考えられている。埼玉古墳群中では最初に築造された。

 稲荷山古墳は大阪府堺市の大仙陵古墳(仁徳天皇の陵に治定)と墳形が類似していることが指摘されている。大仙陵古墳を4分の1に縮小すると稲荷山古墳の形に近くなる。また埼玉古墳群の二子山古墳、鉄砲山古墳も大きさは異なるものの稲荷山古墳と同じ墳形をしており、やはり大仙陵古墳をモデルとした墳形と見られている。埼玉古墳群以外に大仙陵古墳を縮小した形で造営された古墳としては、奈良県の川合大塚山古墳や岡山県の両宮山古墳などが挙げられる。(wikipedia 稲荷山古墳より抜粋)

 

 長くなるので詳細はwikipediaをご参照下さいませ(´・ω・`)ノ

 

 さて、出土した鉄剣の製造年代についてですが、「辛亥年は471年が定説であるが一部に531年説もある」と二説あり、古墳の築造期から考えますと、471年の方が有力であるといったところでしょうか。

 出土した鉄剣に関して言えば、日本列島における弥生後期中葉頃~終末期の長茎・細茎の長剣等は舶載品、短剣は日本列島製が含まれている可能性を追認しているとの調査結果もあり、この鉄剣も想定年より更に古いものである可能性はありますね。

 例えば辛亥年ですから、411年とか、ひょっとしたら351年の物なのかも知れません。まぁ可能性は落ちますが。

 

 次に、鉄剣に書かれてある銘文に目をやりますと、

 

 

 表の銘文は作られた年月、上祖が「意富比垝:オホヒコ」で、そこから自身に至るまでの系譜を裏面にまで列記されており、自身の血統が如何に由緒尊大であるかを誇示されている内容となっております。

 

 更に気になるのは裏の銘文のこの部分、

 獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原」

 

 通説読みは、

 ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。」

 

 「獲加多支鹵」は、大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)、つまり21代雄略天皇のことと現比定されておられますが、雄略天皇の皇居とされるのは泊瀬朝倉宮であり、鉄剣に刻された「斯鬼宮」とは異なります。

 そうでなければ都合が合いませんから、wikipedia雄略天皇の項にも、「斯鬼宮(しきのみや ・磯城宮)」も朝倉宮を指すと言われる…と、結局のところ何の証拠もなく強引に解釈している様です。

 

 また、非常に気になる点として、大王の宮である「斯鬼宮」のことを「寺在」と刻されてある部分です。

 我が国における仏教公伝はこれまた通説によれば、6世紀半ばの欽明天皇期、百済の聖明王(聖王)から伝わったとされています。(有力なのは552年と538年の2説)

 

 ●仏教の東方伝播

 

 

 従って当古墳の築造時期からも、この時にはまだ仏教が伝わってすらいないはずですから、当然のことながら「寺」など存在するはずもなく、これは「侍る:はべる」の減筆であろうと解しておられるようです。

 

 続きまして、

 

 江田船山古墳(えたふなやまこふん)は、熊本県玉名郡和水町(旧菊水町)に所在する前方後円墳。清原(せいばる)古墳群の中で最古・最大の古墳で、日本最古の本格的記録文書である75文字の銀象嵌(ぎんぞうがん)銘をもつ大刀が出土したことで著名である。国の史跡に指定されている。

 

 場所はココ

 

 

 ●築造時期 5世紀-6世紀初頭

 

 江田船山古墳出土の銀錯銘大刀にある銘文を見ますと、

 

 ●鉄刀銘文

 銘文にある「獲□□□鹵大王」は、獲を「蝮(たじひ)」、鹵を「歯」と読んで、反正天皇 多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)(日本書紀)または水歯別命(古事記)と長い間推定されてきたが、埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣に、1978年に「獲加多支鹵大王」という文字が発見されたことから、この文言は「ワカタケル大王」と読むことが分かった。ワカタケル大王は、雄略天皇に比定されている。この東西日本の古墳から同じ王名を記した刀剣が出土したことは、ヤマト王権の支配が広域に及んでいたことを示す。(wikipedia 江田船山古墳より抜粋)

 

 なるほど、稲荷山古墳出土鉄剣により当時のヤマト王権の大王が「獲加多支鹵大王」であることがわかったといったところですね。

 

 この両鉄剣に刻まれる大王「獲加多支鹵」についてなのですが、刻字の読みを1字ずつ分解分析してみますと、

 

 音読:呉音 : ワク(表外)漢音 : カク(クヮク) 訓読:え-る

 音読:呉音 : ケ漢音 :  訓読 : くわ-える、くわ-わる

 音読:呉音 漢音 :  訓読 : おお-い

 音読:呉音: 漢音: シ 訓読:常用漢字表内ささ-える表外つか-える、か-う

 音読:呉音 : ル漢音 :  訓読:しお、しおち、たて

 

 少なくとも私には、「ワカタケル」とは読めず普通に読めば「ワクカタシロ」となりますわね。

 「支」を「ケ」と読むのは少し無理があるように思えます。

 

 これが実在した人物名であるとして、恐らくは、若(稚)堅石?、もしくは若(稚)事代?等の読みの可能性も指摘できますね。

 これまでの考察から、「堅石」は、かたし→きたし→かたしわ→かたぢ等の読みがあり、阿波国には式内社に「事代主:ことしろ-ぬし」があるのが事実です。

 またこれが三種の神器の一つである天叢雲剣の形代(かたしろ)であったとも考えられます。

 

 『古事記』応神条に、天皇と迦具漏比売との子、堅石王:かたしわのみこ(迦多遅王:かたぢのみこ)がおり、「又、堅石王之子者、久奴王也」と堅石王の子に久奴王が居たと記載されてあります。

 鉄剣の銘文には、「獲」つまりは「若=稚」が刻されてありますから、堅石王の兄弟が存在した場合の「弟」、もしくは堅石王の「子」がこの「獲」に該当する人物の第一候補として考えられますね。

 『古事記』では、堅石王に兄弟の記載が見えないため、子に当たる久奴王がこの「獲加多支鹵」である可能性があります。

 

 また、これまでの考え方から、迦具漏比売=日向泉長媛が同一人物であれば、「記紀」では大葉枝皇子(大羽江王)には弟の小葉枝皇子小羽江王:おはえのみこ)がおりますので、こちらが「獲」に対応する可能性もあるでしょう。

 

 この大羽江王・小羽江王兄弟は、大分県国東市安岐町両子の両子山中腹にある天台宗の寺院の両子寺(ふたごじ)では、天童天女の出現は宇佐宮若宮にまつる大葉枝皇子、小葉枝皇子の双子を両子大菩薩と崇め奉安したの説があります。

 

 ◆両子寺(ふたごじ)

 

 

 また出雲国造は、『古事記』によれば、无邪志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・遠江国造も天穂日命の子神・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)が同祖であったはずですので、稲荷山古墳のある埼玉県は、旧律令国において大部分が武蔵国に含まれており、東端部の江戸川沿いの一部地域が下総国に含まれています。

 つまり建比良鳥命の同祖後裔士族のバリバリの領域ということです。

 

 また類似名を探せば、『先代旧事本紀』に、物部十千根の子に、物部片堅石(かたかたし)がおり、こちらは珠流河国造等祖(現在の静岡県中部・北東部)とあり、この片堅石には5人の兄弟がいて、「弟」にあたる物部印岐美(いきみ)は、志紀県主、遠江国造、久努直、佐夜直等祖とありますので、この人物である可能性もアリと言えるでしょう。

 

 ちなみにこの5兄弟、物部胆咋宿禰(いくい)、止志奈(としな)、片堅石(かたかたし)、印岐美(いきみ)、金弓(かなゆみ)

 

 少し追考察してみますと、まずは「いくい」、

 

 座摩神(いかすりのかみ)の神祇官西院において祀られている5柱の神の総称で、生井神(いくゐのかみ)、福井神(さくゐのかみ)、綱長井神は井戸の神々で、波比祇神・阿須波神については、『古事記』においては大年神と天和迦流美豆比売の間に生まれた御子神としており、宮中の敷地を守る神々とされる。(生夷(いくい)というのもあるかな?笑

 

 次に「としな」、

 年縄(としな):年神を祭るために、正月に張る注連縄(しめなわ)。

 

 

 年神は須佐之男命と大山津見神の娘である神大市比売との間にできた息子ですね。

 

 続いて「いきみ」、「かなゆみ」こちらは類似音地名

 

 

 チョット金目は?な気もしますが笑、竹ヶ島ではゾロアスター教と類似する習俗的な慣わしや決まり事がたくさんあり、徳島県南部でも特に興味深い地域の一つ。

 

 そして肝心の片堅石「かたかたし」ですが、実際コレどう読むのが正しいのでしょうかね…。

 普通に読めばすごく読みにくいのですが、「かたかたし」、「かたかたしわ」、「かたし」、「かかたし」、「かかいし」、「かかしわ」、「かかし」など如何様にも読めますが、この音から想起できるのは、『古事記』にある「久延毘古とは"山田のそほど"のことである」と注釈のある「山田の曾富騰」つまりは「かかし」の古名。

 他候補では、日本神話で唯一の”星神”で登場する香香背男(かがせお)や、字音的には、吾田片隅命「あだかたす」や八咫烏「やたがらす」も然りです。

 

 さて、記紀では双子で描かれている12代景行天皇の息子の大碓命・小碓命倭建命)がおりますが、そのエピソードは兄弟の兄が天皇の妃候補である兄比売・弟比売と密通したことで天皇に恨まれ、弟が兄を捕まえ手足をもぎとって薦に包んで投げ捨てたといいます。(要するに双子の「弟」が兄を倒してしまったということ)

 この説話の類似話として、国譲りの段にて建御名方神と建御雷神の力比べによる相撲説話と似ており、建御雷神は相撲を始めると腕を氷の剣にと変え腕を葦のように曲げながら投げ飛ばし、恐れをなして逃げ出した建御名方神は観念し、今後葦原中国は天津神に譲り、事代主神の言うことを聞き、自分はこの諏訪から絶対に出ないと誓いましたとあります。

 この建御名方神は事代主神の「弟」で描かれておりますが、事代主神の妹である高照姫命(=下照姫命とされる)を娶ったのは天若日子(天羽々矢と天之麻迦古弓で射殺される)で、下照姫命の兄の阿遅鉏高日子根神(迦毛大御神)と瓜二つであった旨が記されています。

 

 結局のところ記紀でいわんとすることは、表向きには天津族である邇邇芸命に国譲りという形で主権を渡したことになっていますが、葦原中国の次代は大国主命の息子である積羽八重事代主神に実権を譲歩したという話です。

 これが大碓命・小碓命兄弟においては、兄が天皇の妃候補の姉妹の姫を奪ったが、その兄は弟に倒され、後に弟が実権を握った。

 「紀」には小碓命が天皇に即位した旨は記されてはおりませんが、次代で14代仲哀天皇(倭建命の第2子)が即位しており、結果的には「弟」の系譜が勝ち残っています。

 ただし『常陸国風土記』や各国風土記逸文などでは、”倭建天皇”と呼称されている文献もあります。

 このような場合、一見、記紀での扱いでは、兄弟の「兄」の方の血は途絶えているかのようにも見えますが、『新撰姓氏録』によれば、大碓命の後裔氏族も、左京皇別・河内国皇別・和泉国皇別等で確認できます。

 こちらもまた時間を掛けて別に考察したいと考えています。

 

 話を戻しまして、

 上記古墳から出土した鉄剣については、古墳築造年代と剣や鏡などの出土埋蔵物の”製造年月日”とは全く別の話になるはずですので、先時代に製造されたものが、時を経た5~6世紀の古墳等から出土するケースも数多いことからも、今後の詳細な分析結果が待たれるところです。

 そしてこれまでの「応神天皇の痕跡からの考察」シリーズからも、「堅石」と繋がりを見せる阿南市蒲生田岬近くの賀立(かだち)にある賀立神社(かだちじんじゃ)の御祭神ですが、橘村史で確認して頂いたところ、建鹿島命(たけかしまのみこと)で、共にお祀りされているのが岐神であるとのこと。

 

 

 鹿島を建てる、つまりは鹿島立神で、白鹿に乗って来た神といえば、やはり武甕槌命のことです。

 

 ●鹿島立神影図(奈良国立博物館所蔵)

 

 

 足元には飛雲がありますねウインク

 う~ん、二神で描かれてますなぁ。(後ろにいるのはやはり経津主神でしょう)

 

 この鹿島神は、常陸国一宮の鹿島神宮でお祀りされている建御雷神(たけみかづち)のことで、別名建布都神(たけふつのかみ)・豊布都神(とよふつのかみ)。

 『先代旧事本紀』では経津主神の神魂の刀が布都御魂であるとしており、葦原中国平定では、建御雷之男神と経津主神が同神であるかのように記載しています。

 また、布都御魂を祀る石上神宮が物部氏の武器庫であったとされることから、経津主神も本来は物部氏の祭神であり、後に擡頭する中臣氏の祭神である建御雷神にその神格が奪われたと考えられています。

 

 鹿島神宮の祭神である鹿島大明神こと武甕槌大神は、江戸期に多く書かれたいわゆる「鯰絵:なまずえ」として、要石に住まう日本に地震を引き起こす大鯰を御する存在として多くの例で描かれています。

 

 

 この鯰絵の前身とも言える絵画の一つに大津絵があり、猿が瓢箪で鯰を押さえようとする図が滑稽に描かれています。

 

 ●国宝「瓢鮎図」(ひょうねんず:ここでの鮎は鯰の古字)を茶化した「瓢箪鯰」

 

 

 更に派生したとされる「はしか絵」は疱瘡絵とも呼ばれ、当時、治療不可能とされた天然痘を防ぐ護符としての役割をもつとともに、流行に混乱する人々の状況を描く世俗画で、鯰を打ち据える民衆を描いた「即席鯰はなし」に対する「はしか後の養生」など、鯰絵における大鯰を麻疹の神に置き換えたものが基本であるとされます。

 

 

 wikipediaには、金太郎、桃太郎、鍾馗、源為朝などが、疫病神の嫌う色・赤色のみで描かれている。 と記していますね。

 

 また、袋中上人の『琉球神道記』には、

 「鹿島の明神は、もとはタケミカヅチの神なり。人面蛇身なり。 常州鹿島の海底に居す。一睡十日する故に顔面に牡蠣を生ずること、磯のごとし。故に磯良と名付く。 神功皇后、三韓を征し給うときに、九尾六瞬の亀にのりて、九州にきたる。 勅によりて、梶取となる。また筑前の鹿の島の明神。和州の春日明神この鹿島、おなじく磯良の変化なり。

 …とあり、タケミカヅチ=鹿の島の明神=和州の春日明神=磯武良と同神とする説があります。

 

 建借間命(建借馬命:たけかしまのみこと)は、『先代旧事本紀』国造本紀に初代仲国造(那珂国造)として、また『常陸国風土記』に記述が見える人物。

 『国造本紀』(『先代旧事本紀』第10巻)では、伊予国造と同祖で、成務天皇の御世に初代仲国造(なかのくにのみやつこ)に任じられたとある。また『常陸国風土記』では「建借間命」として、崇神天皇の時代に東国の賊を討伐した説話を載せる。

 仲国造はのちの常陸国東部を治めたとされる国造で、『古事記』に神八井耳命がその祖であると記されている。明治の『大日本神名辞書』では、建借馬命を神八井耳命の後裔としている。

 

 茨城県水戸市飯富町3475に、式内論社 大井神社おおいじんじゃ)がご鎮座。

 

 

 ◆祭 神 建借馬命 (たけかしまのみこと) - 初代仲国造。

 ◆配祀神 木花開耶姫命  - 境内社の本殿への合祀による。

 

 ◆創 建 社伝によると、第10代崇神天皇の御世に、皇子・豊城入彦命の命を奉じて建借馬命が当地に至った。そして長者山に館を構え、北東の当地に神社を建てて天照大神を祀ったのが創祀という。

 その後奈良時代には、那賀郡(那珂郡)の郡領・宇治部氏が建借馬命を奉斎したという。

 

 ◆概 史 平安時代中期の『延喜式神名帳』では「常陸国那賀郡 大井神社」と記載され、式内社に列している。ただし、笠間市の大井神社も式内社の論社とされている。承平年間(931年-938年)、平繁盛と意富臣の族の松本家秀が大宮司を務めたという。

 応永末年には兵火で社殿を焼失、永正年間(1504年-1521年)に再建したが、天正16年(1588年)の兵火で類焼した。

 江戸時代、寛文8年(1668年)に徳川光圀の命で社殿を修営した。そのときの社名は「香取大明神」であったが、寛政年間(1789年-1801年)に元の「大井神社」に復した。安政年間(1854年-1859年)、徳川斉昭の命で現在の拝殿が造営された。

 明治に入り、近代社格制度では村社に列した。(wikipedia 大井神社 (水戸市)より抜粋)

 

 この大井神社には、天照皇大御神を主祭神とする千葉県船橋市にある式内社 意富比神社おおひじんじゃ)通称は船橋大神宮の元宮とされる境内社が存在する。

 

 

 よって社本殿も朱塗りということなのだろう。

 

 

 う~ん、これは非常に興味深いですなぁ。

 「比」の神は「日」の神ということなのかな。

 

 世間一般的には鹿島神として認識され、また、阿波国の東側にあった旧國である長國域では、これが竹ヶ島の神であるといったところでしょうか。

 

 これが意富臣と関係していることからも、阿波国海部郡にある式内社 和奈佐意富曾神社、更には同町大井に座す神社等、聖神社(祭神:聖神)・杉尾神社(祭神:大巳貴命)・池姫神社(祭神:瀬織津姫命)・御崎神社(祭神:猿田彦命)の関連性も十分に指摘されますね。

 

 さて、上の鯰絵にもあるように、建御雷神(=経津主神)が大己貴命(阿波では大穴牟遅神:おおなむぢ)つまり転じて大鯰(おおなまず)を御し抑えた神であるといったところと思われますが、『鹿島宮社例伝記』によれば、鹿島社要石は仏教的宇宙観でいう、大地の最も深い部分である金輪際から生えている柱と言われ、この柱で日本は繋ぎ止められているといい、同様の設定を持つ場所に琵琶湖の竹生島があります。

 

 阿波国の竹ケ島の手前に位置する宍喰浦には金目(かなめ)の地名があり、ここには祭神・由緒・創建不詳の石の祠が二社、通称、病王大明神がひっそりと祀られております。(神社探訪様HP:病王大明神

 

 

 当地金目の地名はつまるところ「要」石なんでしょうなぁ。(やっぱ痘瘡以外にも「地震」も大いに関係しそう…)

 

 ここでのキーワードは、

 

 〇 双子兄弟で描かれる同神の混同

 〇 勝者はやはりいつも「弟」

 〇 何故か二神が融合し現在では同一神と考えられている

 

 実際は鹿島神(武甕槌神/建御雷神)と香取神(経津主大神/伊波比主神/斎主神/斎之大人:いはひのうし)の二神は別神であるからこそ、後に中臣氏の祭神である建御雷神にその神格が奪われたと考えられいるのであり、神護景雲2年(768年)には奈良御蓋山の地に藤原氏の氏社として春日社(現・春日大社)が創建されたといい、鹿島から武甕槌神(第一殿)、香取から経津主命(第二殿)、枚岡から天児屋根命(第三殿)と比売神(第四殿)が勧請され、これら4柱のうち特に鹿島神が主神で、春日社の元々の祭祀も鹿島社の遥拝に発したと見られます。

 その後も藤原氏との関係は深く、宝亀8年(777年)の藤原良継の病の際には「氏神」の鹿島社に対して正三位の神階が奉叙されています。

 

 この海陽町宍喰は日本三大祇園社のある須佐之男命の根拠地であり、また竹ケ島は戎姓の密集地であることが意味する事実は全くの無関係なはずはありません。

 

 二つの神が一つの集合神として考えうるということが、「双子」であったり、また「親と子」が兄弟であると仮定すれば、記紀に記される無数の近親相姦話の記録からも、一人の女性を廻って起った二股による「〇兄弟」という仮説は当然アリと考えます。

 物部氏の祖である天香具山と宇摩志麻遲や、遡って始祖の饒速日命(天火明命)と邇邇芸命、更には大国主命と少彦名命、天若日子と阿遅鉏高日子根等の関係も併せて考えないといけないでしょう。(まぁ他にもたくさんありますが…)

 そういや須佐之男命も同時に生まれた兄で同神ともされている夜食國(よのおすくに)を治めたとされる月読命がいましたね。

 建借間命は、伊”予”国造と同祖…ボソ…

 

 また同時に別のテーマとして、仏教が本当はいつ、どこに、どのようにして我が国に初めて伝わったのかを突き止め、それに基づいた考察をしなければならないでしょう。

 実は仏教は一般的な通説よりも、遙かに古くから伝わっている可能性も十分に考えられますね。ってかおそらく私は通説よりは古いと考えております。

 

 …しかし「応神天皇の痕跡から考察」シリーズがいつになったら完結を迎えるのだろうか…書いている私も一考にわかりませんわ笑笑笑