孝霊天皇(こうれいてんのう、正字体:孝靈天皇、孝安天皇51年 - 孝霊天皇76年2月8日)は、日本の第7代天皇(在位:孝霊天皇元年1月12日 - 孝霊天皇76年2月8日)。

 和風諡号は、『日本書紀』では「大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)」、『古事記』では「大倭根子日子賦斗邇命」。

 『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。

 

 ●系譜

 :第6代孝安天皇、母は皇后で天足彦国押人命の娘の押媛(忍鹿比売)。

 兄弟として、『古事記』では同母兄に大吉備諸進命の名が見える。

 

 皇后:細媛命(くわしひめのみこと/ほそひめのみこと、細比売命)『日本書紀』本文・『古事記』による。磯城県主(または十市県主)大目の娘。ただし、書紀第1の一書では春日千乳早山香媛、第2の一書では十市県主祖の真舌媛とする。

  皇子:大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと、大倭根子日子国玖琉命) - 第8代孝元天皇。

 

 :春日千乳早山香媛(かすがのちちはややまかひめ、春日之千千速真若比売)

  皇女:千千速比売命(ちちはやひめのみこと:古事記) - 日本書紀なし。

 

 倭国香媛(やまとのくにかひめ、絙某姉/蠅伊呂泥/意富夜麻登玖邇阿礼比売命) - 和知都美命の女

  皇女倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと、夜麻登登母母曾毘売命)

  皇子日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと:古事記) - 日本書紀なし。高志之利波臣・豊国之国前臣・五百原君・角鹿海直の祖(記)。

  皇子彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、比古伊佐勢理毘古命/吉備津彦命/大吉備津日子命) - 吉備上道臣の祖(記)。

  皇女:倭迹迹稚屋姫命(やまとととわかやひめのみこと、倭飛羽矢若屋比売)

 

 絙某弟(はえいろど、蠅伊呂杼) - 絙某姉の妹。

  皇子:彦狭島命(ひこさしまのみこと、日子寤間命) - 針間牛鹿臣の祖(記)。

  皇子稚武彦命(わかたけひこのみこと、若日子建吉備津日子命) - 吉備臣の祖(紀)。吉備下道臣・笠臣の祖(記)。

 

 ●事績

 『日本書紀』『古事記』とも事績に関する記載はない。

 『日本書紀』によると、孝安天皇76年1月5日に立太子。孝安天皇102年1月9日の父天皇の崩御を受け、同年12月4日に宮を黒田廬戸宮に遷して、崩御の翌年(孝霊天皇元年)1月12日に即位した。

 その後、孝霊天皇76年2月8日に在位76年にして崩御した。時に『日本書紀』では128歳、『古事記』では106歳という。孝元天皇6年9月6日、遺骸は「片丘馬坂陵」に葬られた。

 

 ●宮

 宮(皇居)の名称は、『日本書紀』『古事記』とも黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)。

宮の伝説地は『和名類聚抄』の大和国城下郡黒田郷と見られ、現在の奈良県磯城郡田原本町黒田周辺と伝承される。同地では、法楽寺境内に「黒田廬戸宮阯」碑が建てられている。

 

 ●陵・霊廟

 陵(みささぎ)は、奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目にある片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ、に治定されている。公式形式は山形。

 陵について『日本書紀』では前述のように「片丘馬坂陵」、『古事記』では「片岡馬坂上」の所在とあるほか、『延喜式』諸陵寮では「片丘馬坂陵」として兆域は東西5町・南北5町、守戸5烟で遠陵としている。しかし後世に所伝は失われ、元禄の探陵で現陵に治定された。(wikipedia 孝霊天皇より)

 

 

 それではいつものように考察して参ります。

 

 まず、阿波国旧名方郡に孝霊天皇の皇子である日子刺肩別命を祀る日本唯一社の式内社 天佐自能和氣神社が鎮座します。

 

 

 天佐自能和氣神社(徳島県徳島市不動東町4宮西569-1)

 

 

 ◆歴史 創祀年代は不詳である。『延喜式神名帳』に載る式内社である。元は孝霊天皇の皇子である日子刺肩別尊一座を祀っていた。後にその母である意富夜麻登玖邇阿礼比売命を勧請し、更に神皇産霊尊と高皇産霊尊を配祀したと伝わる。旧村社。

 

 ◆祭神 神皇産霊尊、高皇産霊尊、日子刺肩別尊、意富夜麻登玖邇阿礼比売命

 

 ◆神紋 十六菊

 (wikipedia 天佐自能和氣神社より)

 
 ●天佐自能和氣神社由来
 延喜式神名帳に曰く小社座祈年国幣に預り給う 古事記に言う孝霊天皇妃に意富夜麻登玖迩阿礼比売命に日子刺肩別命が生れこの皇子を祭神と祭り奉りしなり意富夜麻登玖迩阿礼比売命の父は和知津美命と申し安寧天皇第三皇子師木津日子命の皇子にして淡路御井宮に座し此の由縁などありて日子刺肩別命を淡路に近き阿波の国高崎の地に祭り奉りしなり。
 古老伝説 当社例祭後三日間に諸人参拝を許されじと往古よりの慣例なり然るに旧別当この例を犯し翌日参拝なせしところ忽ちにして病を発し遂に不帰と言う今に至るも例祭執行後直ちに神殿へ注連縄を引き廻し三日間諸人の参拝を許されません。当社は吉野川の沿岸に座し洪水に際しては数郡の濁流怒濤の如く社地北方に深淵となり大渦巻きを起し一見人の謄を寒からしむかかる危険の地に依りながら往古より崩壊する事なく社殿は恰も磐石の上に建つるが如し而して洪水に当たりては社殿内自ら御神楽の音を発し水を治め給いしとそ 既に明治32年県下未曾有の洪水なりしが氏子とも一心に大神の加護を念じたれば殿内自ら御神楽音高く聞こゆるや忽ちにして水治まれりと語り伝う 大正元年夏襲来せる大暴風雨に吉野川氾濫し多数の犠牲者を出しこれが復旧作業として吉野川改修工事施工に当り沿岸に鎮座せられたる当社は現在の地に遷座し奉りしなり今に至るも霊験顕著なるに恐懼し参拝するもの絶ゆることなし。
昭和54年11月   社頭石碑

 

 

 元は現社地よりも約1km程北側の、高崎村”和気”と云う場所に在りましたが、明治44年、吉野川改修工事に伴い現社地に遷座しました。
 社伝によれば、洪水により鮎喰川上流から高崎村和気に流れ着いたとしています。
 

 『徳島県神社誌』によると御祭神は、「天佐自之和氣大神」と記されています。

 幕末の阿波国出身の官吏、岡本監輔の『名神序頌』「旧号を高木権現と云ふ 洪水ある毎に鼓聲祠中に鳴る。遠近之を聞くこと一の如し、乃ち横流の災なし、人心以て安んじ土人之を竜神と謂ふ」とあり、御祭神が「高木神」即ち、「高皇産霊尊」であったと見られます。

 『阿波国式社略考』、『阿府志』にも、「高木権現」を天佐自能和氣神社に比定しています。
 
 また、孝霊天皇の宮の名称が、黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)なのですが、当社の鎮座地のすぐ西側に「西黒田、東黒田」の地名が残ります。
 
 
 
 この廬戸:いお(ほ)どの考察なのですが、第3代安寧天皇の御陵名にある、「畝傍山西南御陰(みほど)井上陵」に続き、再び「いお(ほ)と」つまり「女陰(ほと)」を指し示すキーワードが見られます。
 ※ホトの考察についてはこちらを参考下さい安寧天皇から考察
 これは気延山と眉山とを真っ二つに割れたように流れる鮎喰川周辺の地形を指し示す言葉です。
 
 
 また、第3代安寧天皇の子であり、第4代懿徳天皇の同母弟にあたる「紀」磯城津彦命、「記」師木津日子命(しきつひこのみこと:猪使連の祖)の子が和知都美命であり、この和知都美命の女(むすめ)が第7代孝霊天皇の后である倭国香媛(やまとのくにかひめ:絙某姉/蠅伊呂泥/意富夜麻登玖邇阿礼比売命)なのです。
 ここでも母系は引き続き、海人の系譜を継いでいるようです。
 
 そしてこの国府町西黒田のすぐ近くの南西に、芝原八幡神社があり、ここが八幡神社に置き換えられる前までは、大倭根子日子賊斗邇命(孝霊天皇)が祭祀されておりました。
 
 
 芝原八幡神社(徳島県国府町芝原字宮ノ本15-2)
 
 
 この一帯は「芝原遺跡」として埋蔵文化財包蔵地に含まれており、30年程前には八幡神社北側の畑地で耕作中に大量の土器が出土したといいます。
 
 また、この神社の西隣にある蔵珠院には、螺旋状に掘り下げられ、渦巻き型の通路をつけた日本唯一の珍しい井戸があり、「まいこみ泉」「栄螺(さざえ)の泉」等と呼ばれています。
 
 
 ◆徳島市指定樹木 御神木の銀杏
 
 
 そして、孝霊天皇に姉妹で妃となっている姉、倭国香媛(はえいろね:絙某姉/蠅伊呂泥)の妹、絙某弟(はえいろど:蠅伊呂杼)との間にできた皇子に、吉備臣の祖(紀)、吉備下道臣・笠臣の祖(記)である稚武彦命(わかたけひこのみこと、若日子建吉備津日子命)がおりますが、この皇子も式内社阿波國名方郡の意富門麻比賣神社にて祭祀されております。
 この社は以前に 魏志倭人伝 考察 V ② の最後の方にチラッとだけご紹介しました通称「宅宮神社」のことです。
 
 
 意富門麻比賣神社(宅宮神社)(徳島県徳島市上八万町上中筋558)
 
 
 
 ◆祭神 大苫辺尊大歳神稚武彦命
 
 ◆神紋 丸に五七桐
 
 ◆創祀 年代不詳
 
 
 『延喜式神名帳』阿波国名方郡の「意富門麻比売神社(おおとまひめじんじゃ)」に比定されている(式内社)。式内社で唯一、大苫邊尊を祀る神社である。名方郡12社の1位に挙げられる名社で、貞観16年(874年)に従五位下の神階を得ている。主祭神は家宅・建築の神であるとされる。旧郷社。
 
 ◆祭事 徳島県指定無形民俗文化財。平安時代末期から始まったと伝えられる「五穀豊穣・悪病退散」を祈願する祭り。踊り歌は12種類あり、いずれも素朴な歌詞である。
 
 ◆文化財 神代文字の版木、蜂須賀茂韶公の神名額
(wikipedia 宅宮神社より)
 
 wikipediaにあるように、当社は全国で唯一、神代五代目の神である大苫邊尊(おおとまべのみこと)を祀る神社であり、平安末期から受け継がれている踊りである、『神踊り』は徳島県の無形民俗文化財に指定されています。
 
 ※神踊りの文字は、神が3つ。
 
 
 昌幸氏のブログより拝借いたします(。-人-。) 詳しくはこちらをどうぞ。
 
 五穀豊穣、悪病退散を祈願して毎年旧暦7月16日に氏子13馬組によって古式豊かに奉納され、踊り歌は12種 (御神踊、出雲踊、伯母踊、住吉踊、駿河踊、汐汲、博多踊、燕踊、鐘巻踊、忍び踊,赤黄踊、清水踊)があります。
 
 
 
 この神踊りの中の出雲踊りの歌詞に、「伊豆毛の国の伯母御の宗女、御年十三ならせます、こくちは壱字とおたしなむ」というのがあります。
 なんと「魏志倭人伝」に記載されている「卑彌呼宗女壹與年十三」(卑弥呼の宗女である年十三歳の壱与)と同内容に符号する歌詞が存在します。
 このような歌詞が平安期より続く神踊りの歌中に含まれているのはたいへん興味深いことです。
 また、当社は元は南側500mの山腹に鎮座していたらしく、その背後には樋口古墳群もあります。
 
 社の御祭神は、『神名帳考証』によると、大戸惑女(おおとまめ)あるいは、大戸比賣となっており、足濱目門比賣(=天水塞比賣神)は同神であるとしています。
 『古事記』に、山の神(大山津見神)と野の神(野椎神)から生まれた神々の中に、 大戸惑子神と大戸惑女神がいます。
 また、宮司家の祖神である稚武彦命は京都吉田家より祭祀の通達があり、寛保元年(1741年)3月から祀っているとのこと。
 また、大歳命は、古くから相殿で祀られてきていて、合祀されたものではないとのことである。
 
 この「意富(おほ)」は「大(おお)」を意味し、「門麻(とま)」は「泊(とまり)」つまり を意味しており、往古この地が大きな港であったことを指しています。
 ん?とま?投馬?Σ(・ω・ノ)ノ アヤシイ
 
 『古事記』にある神武天皇が東征の途中に軍隊を止めたところの一つに、「阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)」がありますが、これは阿波の(ふなと:みなと)の意味で、『日本書紀』には「埃(え)の宮」とあります。
 この宅宮(えのみや)神社の周辺の地は、上八万町上中筋の大木(大岐)です。
 
 
 髙木隆弘氏の著書、「記・紀の説話は阿波に実在した」によると、 
 『三代実録』(901年)貞観六年八月条に、阿波国名方郡安曇部粟麻呂は、この地で安曇氏の本拠地であったと地元の人は証言している。
 『新撰姓氏録』(815年)には、安曇氏は綿津見命の後裔にあたり、高天原のある佐那河内村の入口である大岐(おおふなと:大船戸)を守護していた。と書かれています。
 
 ちなみに意富門麻比賣神社(宅宮神社)の鎮座地を地図に示すとこの辺↴
 
 
 ◆Flood Mapsで再現
 
 
 往古は当社周辺まで海であった痕跡が伺えます。
 
 また、先述にあるように、名方郡の著名大社12社を巡る「十二社詣り」が行われており、当社がその第一であると、鳥居扁額に記されています。
 
 
 摂社に厳島神社があり、これも建速須佐之男命と大山津見神の娘である大市比売の間に生まれた大歳神に由来するものでしょうか。
 
 
 厳島神社の御祭神である「記」市寸島比売命、「紀」市杵嶋姫命は、天照大神と建速須佐之男命が天眞名井で行った誓約(うけい)の際に、天照大神が建速須佐之男命の剣を噛んで吹き出した霧から生まれた宗像三女神の三女であり、水の神です。
 これは何か深い関係がありそうですが…(; ・`д・´)コレモアヤシイ
 
 欠史に数えられる第7代孝霊天皇の痕跡は、畿内説の中心地である奈良県には全く見当たりませんが、徳島県においては、眉山を中心に多数残されております。
 
 更に考察②へと続きます。