欠史八代が存在しなかったとされる理由の一つに、「異様な程の長寿性」が挙げられます。
 下に並べてみますと、
 
 2.綏靖天皇…(古)45歳 (日)84歳
 3.安寧天皇…(古)49歳 (日)57歳
 4.懿徳天皇…(古)45歳 (日)77歳
 5.孝昭天皇…(古)93歳 (日)113歳
 6.孝安天皇…(古)123歳 (日)137歳
 7.孝霊天皇…(古)106歳 (日)128歳
 8.孝元天皇…(古)57歳 (日)116歳
 9.開化天皇…(古)63歳 (日)115歳
 
 (古)…『古事記』、(日)…『日本書紀』
 
 ちなみに、初代神武天皇が『古事記』137歳、『日本書紀』で127歳で崩御していますから、この時点で『古事記』での累計718歳、『日本書紀』での累計が954歳となり、すでに9代の間で、236歳もの誤差が生じています。(※上古天皇の在位年数ではなく、単純な寿命の差) 
 
 ちなみに実在したとされる、第10代崇神天皇も『古事記』では168歳、『日本書紀』では120歳となっており、これまた実際にはあり得ない寿命ですが、以降もしばらく現代医学の観点からしても信じ難いレベルの長寿性が認められるのです。
 
 我が国の歴史書として「記紀」が正しい歴史を記しているのかという観点からすれば、すでに全く信用がなくなってしまいます。
 もう一つ、疑うべき箇所として、『古事記』『日本書紀』でそれぞれ崩御された年、つまり天皇の寿命が全く二書で合わないことにも要因として挙げられます。
 また、欠史八代までに関していえば、『古事記』より『日本書紀』の方が全ての天皇の寿命をより増し増しに盛っています。
 
 従ってこの時点で「記紀」二書の書かれている内容のどちらか一方や二書共の”全て”を信用することはできなくなります。
 というか偽書を疑うレベルなのですが、この場合、書かれている内容等から、それがどのようなことを意味し、書で伝えたかったのかを考察し読み取ることが重要といえます。
 一見いい加減な寿命にも見えますが、この書が書かれた時代や政治背景を考慮することによって、わざわざ作為した根本的な理由を考えなければいけないでしょう。
 
 十千十二支では、一巡りが60年。中国では一巡り60年を一元とし、21元(1260年)ごとの辛酉の年に革命が起きるといわれています。
 601年、推古9年、我が国では厩戸皇子(聖徳太子)が現在の奈良県生駒郡斑鳩町に営んだ宮殿とされる「斑鳩宮(いかるがのみや)」が造営されています。
 この年から聖徳太子が政治を開始しました。
 これを逆算して、初代天皇の即位の年を紀元前660年としたのでは、といわれています。(明治時代の歴史学者:那珂通世の説)

 つまり、どうしても初代天皇の即位を紀元前660年としたかった為に寿命を延ばして計算を合わせなければならなかったということ。
 しかし、これはあくまで一説であり、天皇を神格化したかった為にあえて人間離れした寿命にしたとも考えられ、初期の天皇の時代では、年齢の数え方が違っていた(いわゆる半年暦説)のかもしれません。
 こと天皇家の歴史については、世界的に見ても圧倒的に古く、それだけに謎も多いのです。
 
 また、欠史八代が存在しなかったとされるもう一つの理由に、事績が殆ど書かれていないことも挙げられます。
 そして『日本書紀』における第10代崇神天皇の称号である『御肇國天皇』、初代神武天皇の称号『始馭天下之天皇』どちらも「ハツクニシラススメラミコト」と読め、これを「初めて国を治めた天皇」と解釈すれば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになります。
 このことから、本来は崇神が初代天皇であったが「帝紀」「旧辞」の編者らによって神武とそれに続く八代の系譜が付け加えられたと推測することができる。というのが非実在説の主だった理由でもあります。
 
 では崇神天皇の先祖はだれ?いきなり最初から偉くて天皇だったの?
 鶏が先か、卵が先かということになってしまい、結局のところ何も正確にはわからないのです。
 
 また、wikipedia「非実在説」の最後にこうも書かれてあり、
 
 陵墓に関しても欠史八代の天皇には矛盾がある。第10代崇神天皇以降は、多くの場合その陵墓の所在地には考古学の年代観とさほど矛盾しない大規模な古墳がある。だが第9代開化天皇以前は、考古学的に見て後世に築造された古墳か自然丘陵のいずれかしかない。その上、当時(古墳時代前~中期頃)築造された可能性のある古墳もなければ、弥生時代の墳丘墓と見られるものもない。
 
 諸陵墓の項を見ると、
 
 
 現在宮内庁より治定されている場所が、初代神武天皇が奈良県橿原市に東征してより13代成務天皇までが一応、奈良県内に陵(墳墓、古墳等)、即ちお墓を構えたことになっています
 これが一般的な定説となっておりますが、果たして実際はどうなのでしょうか?
 
 現在治定されている諸陵に関しては不確かなものばかりで、wikipediaの治定見直しに伴う指定の変更の項で、

 宮内庁は、「皇室の陵墓はあくまでも祭祀の対象であるため、一般の古墳や墓所とは性格が異なる」として、天皇陵を始めとする陵墓の治定見直しならびに指定の変更を拒絶している。この方針は、戦前の旧神祇省・旧宮内省から引き継がれたものである。陵墓及び陵墓参考地の指定変更が行われる場合についても、「被葬者の特定が可能な史料が発見された」「天皇陵ではないことが文献や記録から明らかになった」などのやむをえない事情によってのみ行われることを明らかにしている。

 陵墓の治定替え又は治定解除は1912年(明治45年)1月が最後となっており、それ以降は治定替え・治定解除は一度も行われていない。陵墓参考地の治定替え・治定解除も1955年(昭和30年)8月以来行われていない。

 

 また、宮内庁は学術的信頼度については「たとえ誤って指定されたとしても、現に祭祀を行なっている以上、そこは天皇陵である」とし、治定見直しを拒絶している。

 …とあります。

 

 要するに一旦治定した場所は、例え間違っていても天皇陵である。おいそれとは変更できないということ。

 これに対して井沢元彦は、現代考古学で明らかに別人と判明している墓を天皇陵として祀ることは先祖霊に対する侮辱であると指摘している。

 …ともあり、この問題は現在でも解決されておりません。

 

 なぜ、『延喜式』の巻第二十一に記載される諸陵式(905年編纂~927年完成。朝廷が管理すべき山陵諸墓に関する記述部分のこと)に明記されているはずの天皇陵の位置がハッキリとわからないのでしょうか。

 

 いにしえの天皇と云えど、いくら寿命が長くてもこの世に生を受けたからには必ず死を迎えます。

 死んだ後、そこには陵墓として残した場所を記録しているのが延喜式にある諸陵式なのです。

 
 国の始まりを徳島県だっとする我が徳島説において、その墓は徳島にあるのではないか、そして、いつ本州(近畿)へ進出し、結果的に国土を広げるために東遷していったのか。
 そして710年に確認できる奈良県の平城京遷都までの経緯はどのように行われていったのか、この辺りを私説を交えながら考察していきたいと考えています。