「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。

 

 「景初二年(238年)六月(通説では景初三年の誤記とする)、倭の女王が大夫の難升米らを派遣して帯方郡に詣で、天子(魏の皇帝)に詣でて朝献することを求めた。

太守の劉夏は官吏を遣わし、送使を率いて京都に詣でる。

 

 」…朝廷、王朝

 」…ささげる、献じる、献上する、差し上げる

 「將」…助ける、手を貸す、率いる

 「京都」…清末から中華人民共和国成立以前のいわゆる旧社会の言葉 (この場合は洛陽)

 

 景初二年(238年)6月、倭の女王が大夫の難升米等を帯方郡に派遣しました。

 その時の太守である劉夏が官吏を遣わし、彼らを率いて洛陽へ朝獻に向かいました。

 この項に関しては、倭国による遣使派遣が、景初二年説景初三年説の二説があります。

 

 景初二年説は、魏志倭人伝の記述通りであるとしますが、当時、帯方郡と楽浪郡を領土としていたのはこの時はまだ公孫一族である公孫淵であり、魏によって当地占領後、斬首されたのが景初2年(238年)8月23日である。よって、戦乱の只中での派遣となる。

 

 景初三年説は、魏志倭人伝の記述は1年間違って記された誤記であるとし、帯方郡と楽浪郡が魏の手に落ちた後、倭国より派遣された方が自然であるとする説です。

 これは、後出される中国の歴史書、梁書(629年)・翰苑・太平御覧などには景初三年で書き直されているからです。

 ただし魏の皇帝である曹叡は 景初2年12月7日に病に倒れ、翌年の景初3年1月に34歳で死亡。8歳の曹芳が即位していることから8歳の皇帝がこの後にある詔を発したのは疑問である。

 

 私説

 ここは記述通り、景初二年説とします。

 倭国遣使が訪れた時に何も帯方郡と楽浪郡どちらも手中にある必要も無く、6月はほぼ大勢が決していた時期であり、交戦中とはいえ、倭国よりこの地まで派遣した場合、少なくとも数ヶ月は要すると思われます。

 時運を即時に読み、魏との外交を率先した卑彌呼の類稀なる手腕であると思われます。

 また、景初3年の魏皇帝は当時まだ8歳の曹芳であり、後見の大将軍曹爽と太尉司馬懿が政務を取り仕切っており、次文に記されている詔書の内容が皇帝の意志であったものとするのかは疑問の余地があります。

 しかし、どちらにしろ倭国が即時に魏へ遣使を派遣したという事実には変わりがありません。

 

 「其年十二月、詔書報倭女王曰:制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。

 

 その年の十二月、詔書を以て倭の女王に報いて曰く「親魏倭王卑彌呼に制詔す。帯方太守の劉夏は使者を派遣し、汝の大夫の難升米、次使の都市牛利を送り、汝が献ずる男の奴隷四人、女の奴隷六人、班布二匹二丈を奉じて届けた。汝の存する場所は余りにも遠いが、遣使を以て貢献してきた、これは汝の忠孝であり、我は甚だ汝を哀れに思う。

 

 「到」…①(人・物・時間などが)到着する、やって来る ②着く、至る、達する

 「踰」(窬)…乗り越える

 

 ここからは魏皇帝の詔書を記しています。

 内容を簡潔に現代訳しますと、

 景初2年(238年)12月、魏皇帝は、卑弥呼へ宛てた詔を次にように述べました。親魏倭王卑彌呼に制詔す

 大夫の難升米、次使の都市牛利が、男の奴隷四人、女の奴隷六人、班布二匹二丈を奉じ届けたこと。女王の在する場所は余りにも遠いが、遣使を以て貢献してきたことは汝の忠孝であり、我は甚だ汝を哀れに思う。

 となります。長文ですので次に続きます。

 

 私説

 大夫難升米達は、男の奴隷四人、女の奴隷六人、班布二匹二丈を奉じて届けたの部分ですが、「以到」とあり、帯方太守の劉夏の使者と共に半年後に無事洛陽に到着したことが分かります。

 また、男女合計10人の生口と、「班布」という布を贈っていますが、班布というのが何なのかはわかっていません。これは太布ではないかと推測します。

 匹は布の数え方の単位で、二匹二丈は(約23m)です。

 遣使の名前の読みなどに関してはまた別な機会にて考察したいと思います。

 

 「今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人、勉為孝順。汝來使難升米、牛利渉遠、道路勤勞。今以難升米為率善中郎將、牛利為率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。

 

 「今、汝を親魏倭王と為し、仮の金印紫綬を包装して帯方太守に付託し、汝に仮授せしむ。その種族の人々を鎮撫(鎮めなだめる)し、努めて孝順させよ。汝の使者の難升米、牛利は遠来し、道中の労に勤める。今、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮授し、引見して慰労を賜い、遣わして還す。

 

 」…仮、仮の

 綏撫」…慰めいたわること

 「孝順」…親に対して孝行を尽くし従順に従うこと

 

 考察

 親魏倭王(卑彌呼) ⇒ 金印紫綬 

 率善中郎将(難升米)・率善校尉(都市牛利) ⇒ 銀印青綬

 

 この時点では仮受とし、引見して慰労を賜い還しました。

 魏の皇帝が認めた「王」の証は金印です。

 卑彌呼に「親魏倭王」を贈る以前の、229年に魏の曹叡は、「大月氏国」(クシャーナ朝)に金印、「親魏大月氏王」贈っています。

 

 印綬

 冊封体制下に於ける中国の周辺諸国の君主たちはそれぞれに名目的に中国王朝の臣下とされ、それぞれが印綬を受けていた。これは外臣と呼ばれ、王朝に直接仕えている内臣よりも一段低い扱いを受ける。

 例えば漢代に於いて諸侯王は内臣の場合は金璽綟綬(きんじれいじゅ)が授けられるが、外臣で王号を持つ者は金印紫綬となる。(wikipedia 印綬より抜粋)

 

 冊封

 冊封(さくほう)とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。

 冊封が宗主国側からの行為であるのに対し、「朝貢国」の側は「臣」の名義で「方物」(土地の産物)を献上、「正朔」を奉ずる(「天子」の元号と天子の制定した暦を使用すること)などを行った。

冊封を受けた国の君主は、王や侯といった中国の'''爵号'''を授かり、中国皇帝と君臣関係を結ぶ。この冊封によって中国皇帝の(形式的ではあるが)臣下となった君主の国のことを冊封国という。

 冊封関係を結んだからといって、それがそのまま中国の領土となったという意味ではない。 冊封国の君主の臣下たちは、あくまで君主の臣下であって、中国皇帝とは関係を持たない。 冊封関係はこの意味で外交関係であり、中華帝国を中心に外交秩序を形成するものであった。

 

 

 ◆冊封体制の始まり

 

 周王朝では頂点である王がその下の諸侯に対して一定の封地を分割して与え、その領有を認める封建制が行われていた。その後の春秋戦国時代にはその形態が崩れ、再統一をした秦では封建制を否定する形で皇帝が天下の全ての土地を直接支配し、例外を認めない郡県制が行われた。

 全ての土地を直接支配すると言うのはもちろん理念上の話であり、現実には匈奴を始めとして秦の支配に従わない周辺民族が多数存在した。しかしこの理念がある限りはこれら周辺民族に対しては征服するか無視するかのいずれかしか無くなり、国際関係の発生のしようが無かった。

 秦に取って代わった漢では郡県支配をする地域と皇族を封建して「国」を作らせて統治させる地域に分ける郡国制を行った。この郡国制が登場したことにより、周辺民族の「国」もまた中国の内部の「国」として中国の「天下全てを支配する」と言う思想と矛盾無く存在できるようになるのである。

 冊封の事例の始めとして、南越国に対するものと衛氏朝鮮に対するものが挙げられる。この二国はそれぞれ漢より「南越王」・「朝鮮王」の冊封を受け、漢の藩国となったのである。

両国は武帝の治世時に滅ぼされ、朝鮮の土地には楽浪郡・玄菟郡・真番郡・臨屯郡の漢四郡が、南越の土地には南海郡・交趾郡などが置かれ、漢の郡県支配の元に服すようになり、冊封体制も一旦は消滅する。

 一方、武帝の治世時より儒教の勢力が拡大し始め、前漢末から後漢初期にかけて支配的地位を確立する。この影響により華夷思想・王化思想もまた影響力を強め、冊封が匈奴・高句麗などの周辺国に対して行われるようになり、再び冊封体制が形成され始める。この時期、倭の奴国の王が後漢・光武帝より「漢倭奴国王」の爵号を受けている(57年)。

 

 

 ◆冊封体制の完成

 

後漢滅亡後、中国は長い分裂時代を迎える。その一方、日本列島に於いては、239年?にいわゆる邪馬台国の卑弥呼が魏に対して使者を送り親魏倭王の爵号を受け、また朝鮮半島に於いては、4世紀半ばに百済・新羅が興るなど周辺諸国の成熟が進み、冊封体制の完成へと進んでいく。

五胡十六国時代には高句麗が前燕により征服されて冊封を受けるようになり、前燕を滅ぼした前秦に対しても朝貢した。新羅もまた高句麗にしたがって前秦に対して朝貢した。一方、二国への対抗上、百済は東晋に対して朝貢し、冊封を受けている。

南北朝時代に入ると、朝鮮三国は南朝から冊封を受けた。この時期、百済は倭の影響下、新羅は倭の支配下にあり、中華秩序下での支配権のお墨付きを得ようと南朝のから承認を得るため自ら冊封を受けた。新羅については承認されたが、百済は既に宋の冊封国であり倭の百済支配が承認される事はなかった。高句麗は北朝の北魏に対しても入朝し冊封を受け、百済に対抗する姿勢を見せた。一方百済もまた高句麗に対抗して北魏に朝貢している。

この後、北朝・南朝それぞれを頂点とする二元的な冊封体制が成立し、この時代が東アジア世界および冊封体制の完成期と見られる。 (wikipedia 冊封より抜粋)

 

 wiki説明に書かれてある「倭の奴国の王が後漢・光武帝より「漢倭奴国王」の爵号を受けている(57年)。」の件についての記述に関しては今回はスルーしますが、、、

 三国時代に一番兵力が高かったのは紛れもなく魏でした。(当時の兵力はおよそ魏6、呉3、蜀1といわれている)

 地理的に呉とも交流のあった倭にとって、どちら側につくかの選択を迫られます。

 ここで卑彌呼は、魏と手を結ぶことにより、国家としての安定をはかりました。

 魏は、公孫淵を滅ぼし、帯方郡と楽浪郡を領土としましたが、その東方にある倭と先に手を結ぶことにより、倭と呉が同盟を組むことを避ける一つの手段としました。

 このことで、呉・蜀に対抗するための背後からの憂いを絶つことができるからです。

 そのため、倭の女王には「親魏倭王」という高い爵号を贈ったのです。

 「王」の爵号としての価値は、公孫淵の遼隧の戦いの件がそれを表しています。

 公孫淵は、遼東の地で自立し燕王と称し、太和2年(228年)、魏の曹叡(明帝)から揚烈将軍の官位を与えられています。しかし公孫淵は魏と通じつつ密かに呉とも通じるなど、巧みな外交を見せています。

 

 

 この経緯から嘉禾2年(233年)、呉から九錫を受け燕王に任じられましたが、後に心変わりして呉の使者として来訪した張彌・許晏・賀達らを殺害し、その首を魏に差し出し、この功績により、大司馬・楽浪公に任じられています。

 しかし、こうした公孫淵の二枚舌外交は、魏の強硬政策を招きます。

 景初元年(237年)、公孫淵はついに自立を宣言、年号も紹漢元年として、燕王を称します。 

 翌2年(238年)、魏は司馬懿に命じてこれを討ちに行きます。このため公孫淵は呉に援軍を求めますが、前述の恨みから援軍が遅れ、止むを得ず単独で戦うも魏軍に大敗しその後、同年8月23日、公孫淵父子をはじめ廷臣は皆斬首、更に遼東の成年男子7000人も虐殺され滅びました。

 

 つまり公孫淵(自称 燕王)は、魏から「公」の位は与えられたものの、自立した国としては見なされず、未だ「王」とは認めてくれませんでした。

 これを不服に思っていた公孫淵はついに独立を宣言、呉と共謀を計るものの、結果としては自滅し、魏に滅ぼされるに至りました。

 このような背景から、冊封体制を敷く魏の戦略下において、王の位は外臣として最上位の爵号だったことが理解できます。

 魏より親魏倭王の称号を制詔された卑彌呼は、当時最大級に評価をされた遠国の女王ということになります。

 長くなりましたので、次項に続きます。