木村大作

1939年生まれ。東京府出身。1958年、東京都立蔵前工業高等学校を卒業後、東宝撮影部にカメラ助手として入社し、黒澤明監督の組に配属される。1973年、『野獣狩り』でカメラマンデビュー。

自分の師匠は撮影助手として付いていた宮川一夫や斉藤孝雄ではなく黒澤明だとしており、その影響を強く受けたことを自認している。黒澤からも、そのピント合わせのうまさから一目置かれており、本人から「撮影助手で名前を憶えているのは大ちゃんくらいだ」と言われた事もあるという。黒澤は『用心棒』で犬が人の手首をくわえて歩いて来るカットをビデオで見るたびに、周りの人間に必ず「これ、ピント合わせてるの、大ちゃんだよ。うまいね」と言っていたというエピソードもある(特になんでもない場面のように見えるが、ピントの合う範囲が狭い望遠レンズを使用しているにも拘らず、カメラの方に向かって歩いて来る犬をぼけることなく完璧に撮影している)。

また黒澤は、木村が一本立ちして東宝を離れてからも、自分の現場でピント合わせで手こずるような事があると「木村大作を呼んで来い。こんなのあいつなら、一発だよ」と冗談交じりに言ったとも言う。『用心棒』で助手として付いていた宮川一夫からも「日本一のフォーカスマン(撮影助手)」と激賞されていることからもわかるように、ピント合わせにおいては、木村は超一流である。

特に東宝は、口径の大きなアナモフィクレンズ(シネマスコープに変換するレンズ)とスタンダードな(写真用35mmレンズと同等)口径のレンズを両手で自分の目でピン送りしていたので、熟達した技能者を必要としていた。特に対象が、キャメラに向かい(騎馬など)、キャメラがトロッコ等で対象に向かっている場合のそれをドンピシャに合わせられたのが木村だった。ただし当然ジャジャボケの時もあり、「泣きの大作」の所以でもあった。なお、黒澤作品にはすべて撮影助手としての参加である。

1973年に須川栄三監督の『野獣狩り』でカメラマンとして一本立ちするが、この作品では木村の発案でオールシーンを手持ちカメラで撮影している。また、撮影用の照明を使わず全て自然照明で撮影することを監督に提案し、撮影中、仕事を奪われた形になった照明技師(黒澤作品などにも携わったベテランの森弘充)がこっそりライトを当てた時は、木村よりもかなりの年長である森を怒鳴りつけたとも語っている。この作品の撮影中に片腕を骨折するが、もう片方の腕だけでカメラを担いで撮影を続行したり、藤岡弘がビルの屋上から隣のビルにジャンプして飛び移る非常に危険なシーンでは、戸惑う藤岡を前に木村が実際にやって見せて、「俺ができるんだからお前もできるだろう」と発破をかけたエピソードもある。

その後は、主に森谷司郎監督や岡本喜八監督とのコンビで名を高めていった。しかし森谷は若くして世を去り、岡本に対しては人柄や才能に最大限の敬意を払いながらも、そのコンテ主義のためにカメラマンの裁量が少なすぎるとして仕事を断るようになる。折しも東宝が実質的に製作撤退しつつあった時期でもあり、同社の専属を離れて深作欣二、降旗康男ら他社出身監督の仕事もふくめ、幅広い活動を行うようになっていく。2009年、初監督作品『劒岳 点の記』が公開された。

 

プロダクションノート

八甲田。

気温零下22度、風速30メートル。

暗黒の海底の恐怖を遥かに凌ぐ、白い深海の恐怖が75年前、200名の命を飲み込み、森谷監督以下スタッフ、俳優らは遭難寸前の危険を冒してこの再現にアタックした。

当時の救援隊は遭難した冷凍の遺体を収容するのに、痛いの損壊を恐れ一体につき10人が付き添い、収容後4時間、熱気により回答して棺に収めたという。

バス5台を買い取る

中古のバス5台を買い取り、撮影現場から撮影基地まで点々と置き、避難場所とした。

スタートまで4時間立ち尽くす

高倉らは早朝6時に出発、待つこと4時間、大ロングで狙うカメラからなかなかスタートが出ず、零下15度の中で一歩も歩かず待ち続けたという。

零下30度、裸で演技

寒さに狂い、衣類を脱ぎ捨ててふんどし一本になるシーン。演じた原田君事、裸でいられるのはせいぜい15ふん、身体中にワセリンを塗って臨んだ。

 

 

今でも「出る」らしい、慰霊碑