『八甲田山』(はっこうださん)は、新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」を原作とする日本映画。橋本プロダクション・東宝映画・シナノ企画の製作で1977年に公開された。

今でも大竹まこと氏は言う。

「地獄だった。エキストラが何人も脱走した。その中で撮影監督の木村大作氏はすごかった。実際に真冬の猪苗代湖の中にダイビングスーツを着て、カメラを担いで行軍シーンを撮影した。365日、全く同じ場所にカメラを据えて撮影し、八甲田の四季の流れを表現した」と。

 

youtubeで見ることができるが、行軍隊の慰霊碑あたりには今でも自分たちが死んだことがわからない霊たちが行軍を続けているという。

 

大半をウィキペディアからの引用だが全部を転載する気はなく、修正させていただいた。

 

 

監督    森谷司郎

脚本    橋本忍

原作    新田次郎「八甲田山死の彷徨」

製作    橋本忍

野村芳太郎

田中友幸

出演者    高倉健

北大路欣也

加山雄三

三國連太郎

音楽    芥川也寸志

撮影    木村大作

編集    池田美千子

竹村重吾

製作会社    橋本プロダクション

東宝映画

シナノ企画(創価学会の関連会社)

配給    東宝

公開    1977年6月4日

上映時間    169分

製作国    日本

言語    日本語

配給収入    25億900万円

 

1902年(明治35年)に青森の連隊が雪中行軍の演習中に遭難し、210名中199名が死亡した事件(八甲田雪中行軍遭難事件)を題材に、極限状態での組織と人間のあり方を問いかけた作品である。配給収入は25億900万円で、1977年の日本映画第1位を記録した[1]。高倉健、北大路欣也主演。北大路の台詞「天は我々を見放した」は当時の流行語になった。監督は森谷司郎、音楽は芥川也寸志で翌1978年3月の第1回日本アカデミー賞音楽賞を受賞している。

 

ストーリー

1901年(明治34年)10月、弘前第八師団の第四旅団本部で、旅団長の友田少将と参謀長の中林大佐が青森歩兵第五連隊と弘前歩兵第三十一連隊の連隊長以下を集めて会議を開いた。議題は八甲田の雪中行軍演習であった。日清戦争終了から6年を経て、ロシアの満州への進出で日露関係が緊迫して、もはや大陸での日露開戦は不可避と見られていた。第八師団では対露戦の準備に入っていた。そこで課題として参謀長が挙げたのは寒地装備と寒地訓練の不足であった。相手は零下40度の雪原でも闘えるロシア軍であり、日本軍にはそのような経験が無いので、極寒対策や雪中行軍の注意点及び装備品の研究を行うために厳冬期の八甲田山を行軍して調査を実施するものであった。加えて陸奥湾と津軽海峡がロシア軍により封鎖・占拠され、青森と八戸・弘前を結ぶ沿岸交通路が艦砲射撃被害などで万一断たれた場合は・内陸の八甲田山系がそれらを結ぶ唯一の経路となるが、当時は「積雪量の多い八甲田が冬期間物資輸送経路にできるか否か未知数」だったため、「八甲田が冬でも物資輸送経路として使えるか否かを試す」意味もあった。

弘前第八師団の友田少将/旅団長(島田正吾)は、雪中行軍の実績がある青森歩兵第五連隊神田大尉/中隊長(北大路欣也)と弘前歩兵第三十一連隊徳島大尉/中隊長(高倉健)に「二人とも雪の八甲田を歩いてみたいとは思わないか」と提案した。これは実質命令であると双方の連隊長は受け取っていた。会議のあとに弘前歩兵第三十一連隊長児島大佐(丹波哲郎)と青森歩兵第五連隊長津村中佐(小林桂樹)はどうせなら八甲田ですれ違う行軍計画にしようと気軽に口約束する。そして出発前、弘前の徳島大尉の私邸で勉強会を終えた徳島と神田は、雪の八甲田での再会を誓い合った。

徳島大尉は第三十一連隊雪中行軍隊の行軍計画要項を連隊長に提出した。連隊長同士の約束を考慮し、10泊で総距離240kmの強行日程を組み、少数精鋭の27名の隊員(その中には兵卒よりも下士官を多くした)で雪中行軍する計画書であった。これは徳島大尉の「このような計画になった責任は連隊長にあります」との言葉通り、連隊長が雪の八甲田で両隊が合流する約束をしたため、弘前からは南を迂回して十和田湖を東に進んで、東南の方向から八甲田山に入るコースしか選択肢がなかったためである。小隊規模にもならぬと連隊長から指摘されると、兵卒を少なく下士官を多く参加させて万が一の場合でも申し訳が立つと言い、「自分は安請け合いしたことを後悔しています。冬の八甲田は恐ろしい所です。」と連隊長に語るのであった。

一方神田大尉の第五連隊雪中行軍計画は、弘前とは対照的に青森からいきなり八甲田をめざす3日間の短期日程で、当初は小隊規模を予定していた。ところが、弘前第三十一連隊の小隊にも満たない規模での長い行程を聞いて大隊長の山田正太郎(三國連太郎)は、弘前第三十一連隊と比較して、青森第五連隊の内容が貧弱に思えて、規模も行程も特色を出すために中隊規模に拡大した上に大隊本部付きでの大行軍にすることを唱え、実施することになった。

1902年(明治35年)1月20日午前5時、弘前第三十一連隊雪中行軍隊は連隊本部を出発した。青森第五連隊では雪中行軍計画要項が提出されて、連隊長が大隊本部の随行は雪中行軍とは別だなと念を押して決裁していた。連隊長は大隊長の同行に不安を感じていた。雪中行軍の本隊である中隊編成は196名、別途随行する大隊本部は14名、合計210名の規模となった。問題は物資を運ぶ輜重隊で、行軍の遅れが心配された[注釈 1]。神田大尉は想定していた3日間の行程ではなく、5-6日かかることを覚悟していた。

1月23日午前6時55分、青森第五連隊雪中行軍隊は連隊本部を出発した。この日の行程は田茂木野 - 小峠 - 大峠 - 賽の河原 - 馬立場 - 鳴沢 - 田代(泊)で20kmを予定していた。しかし、行程半ばで天候が悪化、また雪山に慣れない人間の集団で行軍に影響が出始め、さらには単なる雪中行軍調査のための随行で指揮権の無いはずの大隊長の干渉によって指揮系統が混乱。神田大尉が想定していた田茂木野での案内人の雇用もなくなり、道案内がないまま行軍することになる。やがて吹雪が吹き荒れて、予断を許さない天候状況に行軍するかどうか判断することになった時、別の中隊長が大隊長に意見具申して大隊長が強行する判断を下した。もはやこの時点で神田大尉に指揮権は無かった。輜重隊が遅れたためソリの放棄を大隊長に求めたが大隊長が反対して行軍隊の指揮は決定的に乱れてしまった。そして最初の宿営地である田代への道がどうしても発見できず、日が暮れて暗い雪原の中で寒さに震えながら立ち往生を余儀なくされた。田代までわずか2キロの距離であった。ここでまた混乱が起こる。突然大隊長が行軍を中止して帰営を決断する。そして帰営するため行軍を始めると進藤特務曹長が田代への道筋が分かったとして、方向転換して再び田代へ向かうが峡谷に迷い込んでしまった。特務曹長は錯乱して隊から離れていった。峡谷からは登って行かざるを得ず、氷に足を滑らして多数の犠牲者を出した。神田大尉は馬立場に戻ればと考えたが、もはや過酷な環境と疲労のために雪中行軍隊は四散し、バタバタと倒れていった。2日目の夜も野営を余儀なくされた。神田大尉は徳島大尉に思いを致していた。そして朝になって天候が回復さえすればと念じていた。しかし3日目の1月25日朝を迎えたが天候は回復しなかった。それを見て神田大尉は「天は我々を見放した」と叫んだ。村山伍長(緒形拳)はこの時に隊から離れて一人で行動を始めた。

一方、弘前第三十一連隊雪中行軍隊は一人負傷したが、案内人を雇い入れて計画通りに行軍を進めていた。1月25日に三本木に到着したが、この日に第五連隊雪中行軍隊も三本木に到着の予定であったことを知って、徳島大尉は不安を覚えるのであった。その三本木に電話を入れて来たのは青森第五連隊本部であった。雪中行軍隊の到着の報に一瞬安堵したが、それが弘前第三十一連隊だったと知って、第五連隊長は全連隊に集合をかけた。第五連隊から行方不明になったとの報を受けた弘前第三十一連隊本部は雪中行軍の中止を決断したが徳島大尉に連絡する術がなかった。

1月27日、賽の河原で神田大尉から先に田茂木野に向かい救援を依頼するように命じられていた江藤伍長を、第五連隊本部から来た遭難救助隊が大峠付近で発見し、第五連隊本部並びに師団本部に第五連隊雪中行軍隊遭難の報が入る。しかし第三十一連隊雪中行軍隊はすでに八甲田山に突入していた。第三十一連隊行軍隊は過酷ながらも順調に八甲田を進むが、道中、斉藤伍長の弟である長谷部一等卒(神田大尉の従卒)の遺体を発見する。これで第五連隊行軍隊の遭難を知るが、徳島大尉は不安を押し殺して行軍を続け一気に八甲田の踏破を目指した。猛烈な風雪にたじろぐが前進して行った。困難な行軍の途中、賽の河原にて徳島大尉は、多数の第五連隊行軍隊員の死体を発見する。その中に神田大尉を発見する。遭難の責任を取り、神田は舌を噛み切って雪中で自決していたのだった。冷たくなった神田大尉の顔に、生前の彼の笑顔が重なり、八甲田までの苦労をねぎらう言葉を徳島にかけてくるように見えた。既に逝った男の前で、徳島は幻の再会を果たした。

悲しみと衝撃を受ける徳島大尉だったが、無事に八甲田山を突破、雪中行軍を成功させる。1月29日午前2時に田茂木野に到着する直前、道案内人たちにその労をねぎらい、手当を渡してから「八甲田で見たことは今後一切喋ってはならない」と忠告するのであった。その後に青森第五連隊の遺体収容所に行き、徳島は、収容された神田の遺体と対面。だが第三十一連隊行軍隊が賽の河原に到達する以前、既に第五連隊本部が神田を含む第五連隊行軍隊員の遺体を収容していたことを知り愕然とする。神田の霊が雪中で徳島を待っていたのか、それともあの再会は過酷な寒さによる徳島の幻想であったのか。徳島は神田の妻はつ子(栗原小巻)から、神田大尉が徳島との再会を楽しみにしていたと聞かされ、「会いました。間違いなく自分は賽の河原で会いました」と言って泣き崩れるのであった。

弘前第三十一連隊雪中行軍隊は負傷者1名を三本木から汽車で弘前に帰した以外は全員八甲田を無事踏破し生還を果たした。一方青森第五連隊雪中行軍隊は大隊本部の倉田大尉(加山雄三)の引率の下、12名しか生還(内1名は生還後に死去)することができなかった。その中には人事不省のまま生還した山田大隊長もいたが、彼は遭難の責任をとり、拳銃で心臓を撃ち抜き自決する。徳島大尉以下の面々と第五連隊で生還した倉田大尉は、2年後の日露戦争の黒溝台会戦において零下20度の厳冬の中を戦い抜き、全員戦死。その犠牲は後の奉天会戦での日本軍の勝利に結び付いた。

やがて時が流れて平和な時代が訪れた。青森ねぶた祭の歓声に沸く頃、杖をつきながらロープウェーに乗り、八甲田の自然を窓から静かに眺める一人の老人がいた。青森歩兵第五連隊雪中行軍隊で生き抜いた村山伍長であった。彼は草木に覆われた穏やかな景色の中、八甲田山系の山々をただただ見つめていた。

 

弘前歩兵第三十一連隊

雪中行軍隊

徳島(とくしま)大尉

演 - 高倉健

第一大隊第二中隊長。青森県南津軽郡石川町(現在の弘前市の一部)乳井出身。自宅が弘前市富田、養母が黒石市北田中に居住している。岩木山で雪中行軍の経験があり、冬山、寒冷地、積雪地における行軍を成功させるための様々な工夫を行う。これが「装備を軽くした少数精鋭編成」へ結びつき、第三十一連隊の八甲田山雪中行軍を一人の落伍者も出すことなく成功させることにつながった。日没時には現地の民家で宿営して寒さと暴風雪をしのぎ、睡眠および休憩時間・食事も十分確保して疲労による落伍を防ぐ工夫をした。

田代出発直後に斎藤伍長が弟・長谷部善次郎一等卒の遺体を見つけ「弟の亡骸を背負って帰りたい」と懇願されると、「(亡き弟と一緒に帰りたい)気持ちはよく分かる。だがこの先・田茂木野まではまだまだ難関があるため、弟を背負った斎藤伍長が倒れればそれを助ける者もまた倒れ、我が三十一連隊は全滅する。弟の遺体は後日救助隊が収容に来るから、今は静かに眠らせておいてやれ」と慰留し「自隊の安全を最優先する」旨を強調。のちに参加者全員が長谷部一等卒の遺体に黙祷を捧げた。

一行が猛吹雪の八甲田を踏破し田茂木野村(現在の青森市)へ着くと(案内料を支払って案内人と別れたのち五連隊の捜索隊現地指揮本部へ立ち寄り)、「自隊(三十一連隊)は負傷のため三本木より弘前へ途中帰営させた松尾伍長を除く全員が猛吹雪の八甲田を踏破。鳴沢から賽の河原にかけて神田大尉を含む五連隊の隊員の複数の遺体を発見した」旨を五連隊捜索隊指揮官の木宮少佐へ報告。しかし、実際には神田大尉らの遺体は前日の時点で既に収容されており、田茂木野に設けられた「五連隊雪中行軍遭難犠牲者の遺体安置所」で(本来八甲田山中で会うはずだった)神田大尉の遺体と悲しみの対面をする形となった。

三十一連隊が八甲田雪中行軍を無事成功させた旨は「五連隊大量遭難」に霞み大きくは報じられなかったものの、その後の「寒地訓練確立と寒地対応装備の開発」へと活かされている。

モデルは福島泰蔵大尉。

 

田辺(たなべ)中尉

演 - 浜田晃

高畑(たかはた)少尉

演 - 加藤健一

船山(ふなやま)見習士官

演 - 江幡連

長尾(ながお)見習士官

演 - 高山浩平

倉持(くらもち)見習士官

演 - 安永憲司

斉藤(さいとう)伍長

演 - 前田吟

松尾(まつお)伍長

演 - 早田文次

川瀬(かわせ)伍長

演 - 吉村道夫

佐藤(さとう)一等卒

演 - 樋浦勉

加賀(かが)二等卒

演 - 久保田欣也

小山(こやま)二等卒

演 - 広瀬昌助

徳島の従卒

演 - 渡会洋幸

曹長

演 - 原敬司

見習士官

演 - 北村博之、塚田一彦、広尾博、佐藤健二郎

 

弘前歩兵第三十一連隊

児島(こじま)大佐

演 - 丹波哲郎

連隊長。弘前にある第四旅団司令部で行われた「日露戦争に備えての雪中行軍作戦会議」の終了後に、五連隊長の津村中佐へ「八甲田山の雪中行軍で(三十一連隊と五連隊の)両隊をすれ違う形にしよう」と提案し、これが実施されることになった。

神田隊(五連隊)が消息を絶ったことが判明すると、徳島隊(三十一連隊)に雪中行軍の中止を命じようとしたが、徳島大尉への伝達手段がなかったことで徳島隊は神田隊が遭難していることを知らないままに八甲田山へ突入している。

モデルは児玉大佐。

門間(もんま)少佐

演 - 藤岡琢也

 

弘前第八師団

友田(ともだ)少将

演 - 島田正吾

第四旅団長。

モデルは友安治延少将。

中林(なかばやし)大佐

演 - 大滝秀治

第八師団参謀長。「日露戦争に備えての寒地教育訓練確立」を目的として、青森第五連隊と弘前第三十一連隊への「八甲田雪中行軍」を友田少将と共に提案した。

青森歩兵第五連隊

雪中行軍隊

神田(かんだ)大尉

演 - 北大路欣也

第二大隊第五中隊長。雪中行軍隊の指揮官。秋田県出身で、自宅が青森市筒井にある。

平地での雪中行軍は実施経験があったものの、山岳地帯での行軍は今回の八甲田が初だった。そのため、雪中行軍前の予備演習実施を徳島大尉から勧められ、八甲田の小峠で「小隊編成かつソリ1台」による予備演習を実施。予備演習は好天であり、成果は行軍参加者の人選、隊の編制資料として活用した。

山田少佐の我田引水による朝令暮改的な不適切命令が重なったことで隊は(指揮命令系統の一本化と参加隊員の意思統一が最後まで一度もできず、不完全燃焼も最後まで改善できないまま)馬立場から田代への道中(屯営から23km進んだ場所)で遭難し、部下が(極度の疲労・睡眠不足・空腹のため猛吹雪と激烈な寒さに耐えかね)次々と落伍。道に迷っただけでなく・屯営へも自力で帰れなくなり、最終的に199名の隊員が犠牲となる「史上&世界最悪の大量遭難」を招いてしまった。指揮権を奪われたとはいえ行軍の指揮官であったことから、遭難の責任を取るため、賽の河原で(「斥候となって田茂木野へ先行したのち、地元住民を雇って引き返し雪中行軍隊の救助にあたる」よう命じて)江藤伍長を田茂木野へ行かせた直後、舌を噛み切り自決。雪の八甲田で徳島大尉と再会する約束は果たせず幻に終わり、徳島大尉は神田大尉の変わり果てた姿を田茂木野の遺体安置所で目のあたりにする形となった。

モデルは神成文吉大尉。

 

伊東(いとう)中尉

演 - 東野英心

モデルは生存者の一人である伊藤格明中尉。

中橋(なかはし)中尉

演 - 金尾哲夫

小野(おの)中尉

演 - 古川義範

モデルは水野忠宜中尉。

鈴森(すずもり)少尉

演 - 荒木貞一

中村(なかむら)中尉

演 - 芹沢洋三

野口(のぐち)見習士官

演 - 山西道広

藤村(ふじむら)曹長

演 - 蔵一彦

モデルは藤本左近曹長。

谷川(たにかわ)曹長

演 - 森川利一

村山(むらやま)伍長

演 - 緒形拳

第五中隊第二小隊所属。雪中行軍の結団式後に江藤伍長に会い、行軍本番での携帯食料の保温材として古新聞や風呂敷を酒保(売店)で購入したことを伝えた。

馬立場では夏に八甲田を訪れたときに赤いツツジが咲いていたことを思い出していた。平沢第一露営地では、雪壕で猛吹雪をかろうじてしのげる有難さを実感する[注釈 40]。次々と隊員が落伍していく中、「俺は自分の思い通りに歩く」と言い単独行動し[注釈 41]、青森第五連隊でただ一人目的地であった田代温泉に至った。「最後の生存者」として救助され、生還を果たしたが左腕を凍傷で失った。

エンディングでは、老齢に達した村山伍長が左腕を失って杖をついて歩く場面がある。

モデルは生存者の一人である村松文哉伍長。

高橋(たかはし)伍長

演 - 海原俊介

渡辺(わたなべ)伍長

演 - 堀礼文

モデルは渡辺幸之助軍曹。

江藤(えとう)伍長

演 - 新克利

平山(ひらやま)一等卒

演 - 下條アトム

モデルは古館要吉一等卒。

長谷部 善次郎(はせべ ぜんじろう)一等卒

演 - 佐久間宏則

神田大尉の従卒で、徳島隊の斉藤伍長の弟。

小野中尉の従卒

演 - 浜田宏昭

小野中尉の従卒で、平沢第一露営地では「指揮権を神田大尉殿に戻してほしい」と不満を漏らしていた。

 

雪中行軍随行大隊本部

山田 正太郎(やまだ しょうたろう)少佐

演 - 三國連太郎

第二大隊長。雪中行軍の目的を履き違え(「弘前三十一連隊に勝つため」にすり替え)て行軍本番中に(我田引水と朝令暮改を重ねて神田大尉より指揮権を奪うなど)隊の指揮系統を乱し、大量遭難を招いた張本人として描かれている。

帰営時は救助隊のソリに乗せられて田茂木野へたどり着き、迎えにきた第五連隊長の津村中佐に「大量遭難の全責任は(雪山の知識がなかったのに神田大尉より指揮権を奪い我田引水した)自分にある」と土下座で謝罪した。また、徳島隊が(負傷のため三本木より中途帰営させた松尾伍長を除き)全員無事に雪中行軍を終えて帰営中であることを(津村連隊長からの返答・報告で)知った。これに対して青森第五連隊が(徳島隊に勝ちたいがための)ずさんな計画によって多くの遭難者を出したこと、ことごとく退けた神田大尉の意見が正しかったことを痛感し、(自身の我田引水で多数の部下が犠牲となった)己の愚かさを深く反省する。最期は自責の念から、搬送された青森市内の病院で拳銃自決を遂げた。

モデルは山口鋠少佐。

倉田(くらた)大尉

演 - 加山雄三

当初は八甲田雪中行軍に参加予定がなかったが、山田少佐の命令による随行隊に付くこととなった。

モデルは生存者の一人である倉石一大尉。

沖津(おきつ)大尉

演 - 玉川伊佐男

モデルは興津景敏大尉。

永野(ながの)三等軍医

演 - 竜崎勝

モデルは永井源吾三等軍医。

田村(たむら)見習士官

演 - 日和田春生

モデルは田中見習士官。

進藤(しんどう)特務曹長

演 - 江角英明

モデルは佐藤特務曹長。

今西(いまにし)特務曹長

演 - 井上博一

モデルは生存者の一人である長谷川貞三特務曹長。

 

連隊の隊員

津村(つむら)中佐

演 - 小林桂樹

モデルは津川謙光中佐。

木宮(きのみや)少佐

演 - 神山繁

連隊本部所属。

三上(みかみ)少尉

演 - 森田健作

モデルは三神定之助少尉。

花田(はなだ)伍長

演 - 伊藤敏孝

 

雪中行軍隊の家族・親族

神田 はつ子(かんだ はつこ)

演 - 栗原小巻

神田大尉の妻。行軍出発前日、夫に「携帯懐炉は5・6日分用意してくれ」と言われ、多めに携帯懐炉を用意した。

劇中終盤では、田茂木野に設けられた夫の遺体安置所で「最期の別れがしたい」と訪れた第三十一連隊の徳島大尉を出迎え、「夫は『八甲田で三十一連隊の徳島様に会うのが今回の雪中行軍の楽しみ』と申しておりました」と伝えた。これに徳島大尉は「間違いなく自分は、雪の八甲田で会いました」と告げている。

徳島 妙子(とくしま たえこ)

演 - 加賀まりこ

徳島大尉の妻。神田大尉が徳島大尉の自宅を訪れた際,手料理でもてなす。

斉藤伍長の伯母

演 - 菅井きん

斉藤伍長(弘前歩兵第三十一連隊)と長谷部善次郎一等卒(青森歩兵第五連隊)の伯母。雪中行軍前に青森にある彼女の自宅で斉藤伍長と長谷部一等卒が会うはずが、斉藤伍長の都合で会うことができなかった。そのため、「出来れば弟(長谷部一等卒)は八甲田雪中行軍に参加しないほうが良い」という伝言を受け、長谷部一等卒に伝えた。長谷部一等卒の行軍参加については自身も心配していた。

 

案内人たち

滝口さわ(たきぐち さわ)

演 - 秋吉久美子

宇樽部村の村民。宇樽部(現在の十和田市奥瀬十和田湖畔宇樽部)と実家がある戸来(現在の三戸郡新郷村)鹿田地区の往復時に冬の犬吠峠越えをした経験が二度ある。徳島隊の案内人となり、宇樽部から中里まで徳島隊を案内した。中里で徳島隊と別れ、実家へ帰省。

沢中 吉平(さわなか きちべい)

演 - 山谷初男

福沢鉄太郎(ふくざわ てつたろう)

演 - 丹古母鬼馬二

沢田留吉(さわだ りゅうきち)

演 - 青木卓

大原 寅助(おおはら とらのすけ)

演 - 永妻旭

 

ソリ隊の兵卒

演 - 大竹まこと

行李輸送隊(ソリ隊)としてソリを牽引。大峠での小休止では、指揮官が神田大尉から山田少佐に変わっても関係ないとして、「早く田代で温泉に入って一杯やりたい」とこぼしていた。

平沢第一露営地を出発する際、汗だくになっていたため、雪壕を出た途端に下着と軍服が凍結し、そのまま凍死。神田隊の最初の犠牲者となった[2]。この兵卒が死亡した後、ソリ隊はソリを放棄して、重い荷物を背負い、極寒と猛吹雪の中、不眠不休絶食の状態で歩いたため、ソリ隊員が次々と落伍していき、鳴沢第二露営地と中の森第三露営地に到着した際には、シャベルを持っていた隊員が既に落伍(駒込川からの崖登りで滑落死)していたため雪壕を掘ることができなかった。