DVDに紹介されているプロダクションノートを、抜粋する。

 

原作のコーネリアス・ライアンは。作品を書き起こした頃、肺がんに侵され、出版キャンペーン中に死去。

プロデューサージョセフ・E・レヴィンは彼と病床で誓ったという。

ライアンは77年11/23死去、レヴィンは80万ドルで買い取った。

そして気鋭の脚本家ウイリアム・ゴールドマンを起用、当時、たった2作「戦争と冒険」「素晴らしき戦争」の経験しかなかった、リチャード・アッテンボローに賭けた。

彼は「役者を動かすのがうまかった。」とはエリオット・グールドの話。

レヴィンは、当初どのエージェントからも信用されておらず、結果、1000万ドルの自腹を切った。

しかし、レヴィン自身もミスをした。地元新聞社に喋ったことでボラれた。「2500万ドルもあるのだからケチるな」と。

結果土嚢袋一つに100ドルもして、彼はドイツにまで発注のために翻弄した。

レヴィンはS・マックイーンにも出演を依頼したが「断られた」という。

ウィキペディアでは法外なギャラを要求したためにアッテンボローが「蹴った」。

 

車両は世界中のコレクターや博物館から車両や軍用機を調達した。

当初、降下に使うDC3を集めたのは11機、中でも使えるのは9機。

撮影担当のウォーリー(ウィキペディアではスタッフのどの人物か不明)は、CGではなく、撮影したDC3の機体を何枚もガラスに映すことで何十機も見せることに成功した。

集まったシャーマン戦車はたった5両。彼はこのシャーマンから石膏で複製、ファイバーグラスのハリボテを作り、VWに被せた。

「誰もこの中にVWが入っているとは思わないだろうね。ただ、キャタピラが若干浮いていたんだ(笑)」

(ウィキでは「四輪駆動車にFRP製のハリボテを被せたダミーが用いられている。」と解説。

ホルサ・グライダーは、1機もなく、全て想像で制作した。

湿気に弱く、羽根がしなって悩まされたという。

アーネム市街および橋での戦闘シーンは、街の景観が戦災で変わってしまっていたため、比較的当時の景観を残す近郊の町デーフェンテルで撮影を行っている。

レヴィンは、川にフェリーを走らせて、交通の妨げにならないよう工夫した。

フェリーに乗る住民や観光客が見上げると、橋の上を走る戦車が見渡せた。

 

 

エディ・ドーハン軍曹(ジェームズ・カーン)が、上司の大尉を助けるべくジープを走らせ、軍医(アーサー・ヒル)に銃を抜いて手術を迫ったシーンは史実という。

ナイメーヘンでの渡河シーン。

指揮を取ったのはジュリアン・クック少佐。

だが映画のようには実戦には参加しなかったらしい。(どこにいたか?は不明)

史実、504連隊タッカー大佐は、ホロックス中将にこの渡河作戦が成功したら必ずアーネムに行くと約束した。

が。実際はクック少佐が30軍団のキャリントン大尉に詰め寄るように、橋を渡ったところで足踏みする、これはホロックス中将の裏切りだったと、当時参加した人物が証言した。

撮影では、史実に忠実に布を貼った粗末なボートを用いた。あまりにも貧相で皆疑い、助監督やカメラスタッフも軍服に着替えて渡河に参加したのだという。

史実ではあまりの河の速さに飲まれ、ボートが傾くために戦死した兵を蹴落として漕いだという。

 

なお、停戦合意はアーネムではなく、アイントホーフェンからナイメーヘンまでに及んだ。

 

ジョン・フロスト中佐が降伏を協議に来たドイツ兵に、当初はフロスト中佐自身が「断る」という設定だった。史実では映画のように自分の部下が応じた。それは史実とは異なる、とフロスト役のアンソニー・ホプキンスが断ったため。後日、レヴィンはこのことについて「ホプキンスを傷つけてしまった」と語っている。

 

 

 

メインキャスト及び歴史上の人物たちの紹介。

各々、名台詞も記してみたのでお楽しみください。

 

「あの橋は遠すぎたな」

フレデリック・ブラウニング中将(ダーク・ボガード)

 

写真:ソサボフスキー准将とブラウニング中将

英第1空挺軍軍団長でありマーケット作戦司令官。

モントゴメリー元帥の命を受けマーケット・ガーデン作戦を推し進める。

作中唯一の悪役にされ、殆どの将校が作戦内容に異を唱える中、1人楽観視していたりドイツ軍の重要な計画を知らされていながらも無視し、報告者のフラー少佐を作戦から外したりと、結果多くの人命を失う事になった。

本作を観ているだけなら間違いなくブラウニング個人の人格を疑ってしまうだろう。

歴戦の勇士であるアーカート少将を買っている様だが、本作のラスト、作戦終了後の会話で決定的な亀裂を生んだ。

劇中でのブラウニング中将の描写には議論も多く、夫人は「夫が作戦失敗の責任者にされている」と憤慨し、撮影当時生存していた彼にアッテンボローと脚本のゴールドマンを訴えるよう進言した知人もいたほどであったという。また演じたダーク・ボガードもブラウニング本人と現役時代からの交遊があったため人物描写には疑問を感じており、アッテンボローとの関係は本作以降絶えてしまったという。

 

 

 

 

「3日どころか9日も持ったのに」

ロイ・アーカート少将=ショーン・コネリー

(少将の記録は後日書きます)

 

 

 

ブライアン・ホロックス中将(第2軍第30軍団長、ガーデン作戦司令官)

=エドワード・フォックス

左、2番目がモントゴメリー元帥、隣がホロックス中将。

「遥かなる橋」より。

 

将校たちの演説で

「橋を守る空挺部隊は西部に残る北軍であり、我々はその北軍を救出する騎兵隊である!」

との名演説をし、将校から拍手喝采を受ける。

「我々は騎兵隊である!」

 

ロジャー・ムーアはホロックス中将役でオファーを受けたが、当時『007 私を愛したスパイ』の撮影スケジュールが込み入っていたため、一度は断った。その後余裕ができたため、出演を受諾しようとしたものの、既に代役としてエドワード・フォックスが立てられた。

がーー。この名演説をムーアがやって、ピッタリくるだろうか?

 

映画「ジャッカルの日」

1960年代のフランスを舞台に、シャルル・ド・ゴール大統領暗殺を企てる武装組織「秘密軍事組織(OAS)」が雇ったプロの暗殺者「ジャッカル」と、大統領暗殺を阻止しようとするフランス官憲の追跡を描いたスリラー小説である。

 

 

 

「ポーランドでは少数派ですからな。黙っているに限ります」

 

スタニスラウ・ソサボフスキー准将(ポーランド第1独立落下傘旅団長)

ジーン・ハックマン

「私はポーランドでは頭が良いと言われてます。ならば少数派ですから黙っているに限ります」

ブラウニング中将「黙っておられると怖いですよ」

ジーン・ハックマン。日本のお茶の間では有名すぎる方。

「フレンチ・コネクション」のポパイ刑事も有名だが、「スーパーマン」では悪役もこなした。

スタニスラウ・フランチシェクス・ソサボフスキー(Stanisław Franciszek Sosabowski、1892年5月8日 – 1967年9月25日)は第2次世界大戦中のポーランドの軍人である。ソサボフスキーは自由ポーランド第1パラシュート旅団旅団長としてマーケットガーデン作戦時、アルンヘムで戦った。

ポーランド第1空挺旅団は、連合軍のマーケットガーデン作戦に参加することになったが、輸送機が足りないため、旅団は分割され、逐次降下されることとなった。ソサボフスキーと旅団の分遣隊は9月19日、オーファーベートゥヴェ (en:Overbetuwe)のダリエル (Driel)へ降下したが、残りの部隊が遠く離れたフラーフェ (en:Grave)にドイツ軍の待ち伏せの中降下した9月21日、すでにソサボフスキーは移動していた。旅団の砲門はイギリス第1空挺師団と共に降下しており、榴弾砲は海上輸送で送られることになっていたため、部隊は効率的に砲門を使用することができなかった。

ソサボフスキーは3度、包囲下のイギリス第1空挺師団を救助するためにライン川を越えて攻撃しようとした。しかし、彼らが使用する予定であった渡し船は沈んでしまっていたため、ドイツ軍の激しい砲撃の中、ゴムボートで川を渡ろうとした。激しい戦闘の中、少なくとも200人がイギリス軍陣地に到着した。

戦線では押されていたが、9月24日、ソサボフスキーはまだ戦闘は勝利する可能性があると示唆していた。彼はイギリス第30軍団の各部隊と旅団がドイツ軍に全面的攻撃を仕掛けて、ライン川を突破するよう提案した。しかし、この計画は拒否され、作戦終了間際の9月25日、26日とソサボフスキーは部隊を南へ向かわせ、イギリス第1空挺師団の生存兵の退却を援護した。戦闘における旅団の損害は高く、40%以上と考えられている。

戦いの後、ソサボフスキーは、イギリス軍のフレデリック・ブラウニング中将の批判により、マーケットガーデン作戦のスケープゴートにされた。ソサボフスキーはイギリス軍元帥バーナード・モントゴメリーを非難したとして訴えられたため、1944年12月27日、ソサボフスキーは旅団長から警備部隊の指揮官に左遷され、1948年7月、除隊した。

この作戦を描いた1977年の映画「遠すぎた橋」ではソサボフスキーをジーン・ハックマンが演じている。

 

 

 

 

「そんな軍隊用語はないぞ」

ジョン・フロスト中佐=アンソニー・ホプキンス

 

私はつい最近まで、あのレクター博士だとは全く知りませんでした。それでよく「映画が好き」と言えるものですよね。

民家の屋上から橋を見張るフロスト中佐には、とてもレクター博士は想像つかないし、第一、似てない。

レクター博士

アルンヘム橋の戦いでドイツ軍に降伏したジョン・フロスト中佐は、その後シュパンゲンベルク(Spangenberg)の戦争捕虜収容所に収監された後、オベルマスフェルド(Obermassfeldt)の軍事病院に入院。 その後オーバーランド作戦により1945年3月解放された。 同年9月20日にアルンヘムでの彼のリーダーシップを讃えて勲章を授与される。

戦後も軍に残り、少将にまで昇進している。

引退後にはマルタ共和国最高軍事顧問に就任。またウエスト・サセックス州の要職に就任。

そして1993年に80才で天寿を全うされた。

激戦の地アルンヘム橋は、ドイツ軍の南下を怖れた連合軍によって爆破されたが、後に復元され、その名も「ジョン・フロスト橋」と呼ばれている。

 

 

(中佐ご本人の写真はありません)

ジョー・バンドルール中佐=マイケル・ケイン

バンドルールの家系は、代々アイルランドクレア県キルラッシュで生活していた。彼自身は1903年11月14日にイギリス領インド帝国ノーシェラ(現:パキスタン)で生まれている。

軍歴

1924年、少尉としてアイルランド近衛連隊に入隊。以降第二次世界大戦勃発まで英埃領スーダンやエジプト王国などで勤務した。

第二次世界大戦では、1944年のマーケット・ガーデン作戦に於いてアイルランド近衛連隊第3大隊指揮官として参戦し、第30軍団(英語版)を率いていた。また、彼のまた従兄弟に当たるジャイルズ・ヴァンデリュア(英語版)中佐もアイルランド近衛連隊第2機甲大隊の指揮官として参戦している。

ヴァンデリュアは他にも、第129歩兵旅団や第32歩兵旅団の指揮官を務めた。1951年退役。

戦後

J.O.E.ヴァンデリュア本人は軍事アドバイザーとして本作の製作に携わった。

戦後は専らバークシャーのメイデンヘッドで過ごし、1988年8月4日にそこで死去した。

 

この方も名優だろう。

キャリアへの評価から、1993年には英国女王エリザベス2世からCBE勲章(Commander of the British Empire)を授賞された。更に2000年には長年の活動を称えられてナイトに叙され、Sir(サー)の称号を受けた。

「鷲は舞い降りた」のクルト・シュタイナー大佐のイメージも強い。

チャーチルの暗殺を企て、事実、替え玉の首相がベランダに立ったところを、偽者と知らずに射殺するのですから、本人にとっては「成功」なのでしょうね。

「バットマン」では" 世界一の執事 " と絶賛された。

 

 

 

「ブッ転がせ!」

 

「カプリコン1」より

ボビー・スタウト大佐=エリオット・グールド

ボビー・スタウト大佐は架空の人物。

エリオット・グールドと言えば「カプリコン1」での冴えない記者。その冴えない記者が、NASA のでっち上げを見抜いて、宇宙飛行士と共に生還するラストシーンが印象的でした。モジャモジャ頭で、とても大佐のイメージがありません。

スタウト中佐は架空の人物です。

 

 

 

「30軍団に引き継ぐ。彼らは優秀だ。財布に気をつけたまえ」

 

マクスウェル・D・テイラー少将(第101空挺師団長)

=ポール・マクスウェル

マクスウェル・ダヴェンポート・テイラー(英語: Maxwell Davenport Taylor, 1901年8月26日 - 1987年4月19日)は、アメリカ合衆国の軍人、外交官。

テイラーはミズーリ州キーテスビルで生まれ、1922年にアメリカ陸軍士官学校を卒業した。日本語など7カ国語に通じ、1937年の盧溝橋事件のときは、駐日大使館付武官補佐官であったが北京に出張した。そして、北京の食堂に入って日本軍の兵士の方言を聞き分け、内地3個師団が派遣されたことを確認した。

テイラーのアメリカ政府内での昇進は、第二次世界大戦初期における第82空挺師団でマシュー・リッジウェイ将軍の下から始まった。1943年にはその外交および言語能力からローマでの秘密任務に結びついた。ドワイト・D・アイゼンハワー将軍は後に「私が戦争の間、いかなる他のエージェントおよび密偵に依頼したよりも、彼が冒した危険は大きかった。」と語った。彼は新しいイタリアの首相、ピエトロ・バドリオ元帥に会って第82空挺師団が降下してイタリア軍と共に行動する任務のコーディネイトを任された。ローマの近くに降下して占領する予定であったが、彼はそれが既に遅すぎるということを悟り、作戦は土壇場で中止された。ドイツ軍は予定された降下地帯をカバーするために既に移動していた。テイラーが降下の中止を報告したとき、輸送機は既に飛行中であった。

地中海戦役後にテイラーは、イギリスで訓練中の第101空挺師団に配属される。同師団の創立者および指揮官であったビル・リー少将が心臓発作を起こした後、テイラーは師団の指揮官に就任した。

テイラーは従卒と共にノルマンディーへ降下し、連合軍の将官としてD-デイ当日最初にフランスの地に立った。彼はその後終戦まで第101空挺師団を指揮したが、その後同師団が参加した最も有名な戦闘であったバルジの戦いでのバストーニュにおける戦闘では、スタッフ会議に出席するため本国に帰国中で戦闘を指揮することはできなかった。彼の代わりにアンソニー・マコーリフ将軍が同師団を指揮した。落下傘兵のうちの幾名かはこの出来事からその後テイラーに憤慨した。テイラー将軍は、バストーニュにおける第101空挺師団の防衛戦を第二次世界大戦における「最もすばらしい時間」であったとし、当時彼がその現場に不在であったことを、第二次世界大戦で最も当て外れの出来事であったと述べた。

 

 

 

 

「夜まではイギリス軍が持たない。日中の渡河を頼む」

 

ジェームズ・M・ギャビン准将(第82空挺師団長)

=ライアン・オニール

ジェームズ・モーリス・ギャビン(James Maurice Gavin、 1907年3月22日 - 1990年2月23日)はアメリカ陸軍の軍人。最終階級は中将。第二次世界大戦において将官に昇進し、第82空挺師団長に就任した後も常に第一線の兵士達とともに空挺作戦でパラシュート降下を行ったため、「ジャンピン・ジム」、「ジャンピング・ジェネラル」と呼ばれた。

また、伝統的に士官が所持する拳銃を持たず、一般兵士と同じM1ガーランドライフルを装備するのを好むことが内部で広く知られていた。

 

ドイツ軍

 

カール・ルートヴィヒ親衛隊少将(SS装甲師団長)=ハーディ・クリューガー

少将も架空の人物。

この方はドイツ出身の俳優。

だったらもう少し戦争映画に出てもおかしくなさげなのですが、大作というほどの映画出演もなく、有名なのが「ワイルド・ギース」。

救出すべきの黒人大統領を、当初は侮蔑していたも、最後には打ち解けて大統領の盾になって撃たれるという役。前に紹介したロジャー・ムーアと共演している。

 

 

 

「戦争を終わらせることだ。何がおかしい?」

 

ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥(西部方面軍総司令官)

=ヴォルフガング・プライス

カール・ルドルフ・ゲルト・フォン・ルントシュテット(Karl Rudolf Gerd von Rundstedt, 1875年12月12日 - 1953年2月24日)は、ドイツの軍人。第二次世界大戦中に軍集団司令官や総軍司令官などを務めた。最終階級は元帥。ドイツ国防軍の長老として知られる。

敗戦直前の1945年5月1日にバイエルン州バート・テルツ(de)において息子のハンス・ゲルト・フォン・ルントシュテット少尉とともにアメリカ軍第36歩兵師団によって捕虜にされた。5月10日にイギリスに身柄を引き渡され、イギリス軍事法廷に戦犯として起訴された。理由は1942年6月21日に捕虜にした英軍のコマンド部隊員をスパイとしてゲシュタポに引き渡したことが違法命令とされたためだった。

しかし、高齢のルントシュテットには裁判に耐えられるだけの体力は無く、取り調べ中も何度か心臓発作を起こしている。1949年5月5日にルントュテットは心臓病を理由に裁判前に釈放され[6]、1953年2月24日ハノーファーで死去した。

 

 

 

「全市叩き潰せ」

ヴィルヘルム・ビットリッヒ親衛隊中将(第2SS装甲師団長)

=マクシミリアン・シェル

 

ヴィルヘルム・ビットリヒ(ドイツ語: Wilhelm Bittrich、1894年2月26日‐1979年4月19日)はドイツの軍人。ドイツの政党国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の武装組織武装親衛隊(Waffen-SS)の将軍。最終階級は親衛隊大将(SS-Obergruppenführer)および武装親衛隊大将(General der Waffen-SS)。

1943年2月から1944年6月にかけて第9SS装甲師団「ホーエンシュタウフェン」の師団長としてタルノポリへの反撃作戦などに参加し、ストリパ川地区で激戦を指揮した。1944年6月から再びハウサーの後任として第2SS装甲軍団(第9SS装甲師団と第10SS装甲師団)の軍団長となり、上陸してきた連合軍を迎えうった。8月、カーンにおいてアメリカ軍に包囲されかけたが、突破に成功している。この件はビットリヒの評価を高めた。この戦功で柏葉付騎士鉄十字章を受章した。ドイツ軍がオランダへ後退したのち、9月17日にイギリス軍がマーケット・ガーデン作戦を開始。英軍はビットリヒの第2SS装甲軍団が陣を構えていたアーネムへ降下してきたが、イギリス軍の作戦の粗雑さもあってビットリヒは撃退に成功した。これが西部戦線におけるドイツ軍の最期の勝利であった。

この後、ヨーゼフ・ディートリヒの指揮下で引き続き第2SS装甲軍団を指揮し、ラ・ロッシュ=シュル=ヨン北方のグランドメニルまで進撃した。1945年3月からはビットリヒの第2SS装甲軍団はハンガリーに転戦した。「春の目覚め作戦」に参加し、ソ連軍と激闘した。1945年4月からはウィーン防衛の総指揮をとった。5月に騎士鉄十字章剣章を受章した。

1945年5月8日、アメリカ軍によって逮捕された。身柄はアメリカ合衆国政府からフランス政府に引き渡され、17名のレジスタンス処刑命令を出した廉でフランスの軍事裁判にかけられ、1953年6月に5年の実刑判決を受けた。また別の国家犯罪でも法廷にかけられたが、こちらは無罪となった。1954年に釈放された[2]。1972年にはパウル・ハウサーの後を継いで旧武装親衛隊員相互扶助協会(HIAG)の名誉議長に就任し、死去まで務めた[8]。1979年にバイエルン州ヴォルフラーツハウゼン(ドイツ語版)で死去した。

 

 

その他のスターのエピソード。

1. ダーク・ボガード(ブラウニング中将の役)
驚くべきことにボガードはこの作戦に情報将校としてアーネムの戦いに参加している。嘘のような本当の話です。彼はイギリス空軍の航空写真専門の情報将校だったので、たぶん偵察機での参加。なお彼はベルゲン・ベルゼンの強制収容所(アンネ・フランクが亡くなった場所)の解放にあたって、最初に立ち会った連合軍将校の中の一人でもある。終戦時に彼は少佐となっており、勲章も7個もらった。

そんな過去があるのに、情報将校フラー少佐(←映画での役名、実名はアーカート少佐、ショーン・コネリーが演じたアーカート少将と紛らわしいので、映画では名前を変えた)の情報を握りつぶす役を演じた。

2.オードリー・ヘップバーン
→たくさんのファンがいるでしょうから、知っている方も多いと思います。彼女はこの戦いの時に、アーネムでダンスを習っていた。ですからアーネムの凄まじい市街戦や、その後に訪れた強制疎開による凍てつく寒さと飢餓を体験している。

彼女はこの『遠すぎた橋』でケイト・テア・ホルスト夫人の役をオファーされたが、少女時代の悲惨な体験を思い出したくないのと断り、同じ理由でアンネ・フランクを題材にした映画の出演も断っている。

3.テレンス・ヤング監督
→初期の頃の007の監督として有名。実は彼もアーネムで tank commander(戦車長)としてこの作戦に参加し、負傷した。そのときに看護してくれた一人が少女時代のオードリー・ヘップバーン。

彼が『暗くなるまで待って』を監督していたとき、アーネム時代のことで、オードリーと冗談をまじえながら話していたそう。


ダフネ・デュ・モーリア夫人
→この人だれ?って人も多いのでは。実はヒッチコックの映画『レベッカ』と『鳥』の原作者。ミステリー作家として第二次大戦時はロンドン社交界の有名人だった。
そんな人が『遠すぎた橋』と関係あるの?ってのは当然の疑問でしょうが、何と彼女はホンモノのブラウニング中将の正真正銘の奥さん。ウソみたいなホントの話である。

ホントのブラウニング中将
→彼はイギリスでの空挺作戦の権威でグライダーの操縦も上手だったそう。しかし実戦の経験はなかった。

モントゴメリー元帥からこの作戦について初めて聞いたときに、「たやすくはないが、空挺部隊は4日は頑張れるでしょう。でも閣下、橋がひとつぶん遠すぎますよ」とモントゴメリー元帥に対して発言している。(映画では、A bridge too farは、ブラウニング中将がラストでアーカート少将に言った言葉として紹介されているが、実際は作戦開始前にモントゴメリー元帥に対して言った言葉である。ニュアンス的にthe bridge(=アーネムの橋)と言うよりも、a bridgeと不定冠詞を使っているのでひとつ橋が多すぎます、って意味合いが強いよう)

その意味ではブラウニングは作戦の困難さは十二分にわかっていましたし、その予想もほぼ的確だったことになる。モントゴメリーの命令には従わざるを得なかった。

 

 

この作品はVHSで観て、レーザーディスクで観て、DVDで観ました。もちろん、リバイバル上映でも観ました。

封切り映画は母と観に行ったのですが、自分の家が戦場となり、耐えかねた老婆がタクシーを呼ぶシーンからしか観ておりません。そんな記憶です。

「ジョーズ」も母と観に行きましたが、クイントが漁師の船底からサメに喰われた死体を発見するあたりからしか観てないんです。

それはさておき。

始めにレーザーディスクで観ておいたのは正解でした。

 

ウェーバー大佐(リチャード・ケーン)が、ホルスト夫人(リヴ・ウルマン)の家を尋ねて負傷者を一時置かせてもらえるよう話すシーンがあります。

ホルスト夫人は快く引き受け、隊員たちが家に入ったとき、絨毯に血が滴り落ちるのですが、このカットが消されていました。

 

きっと他にも削除されたシーンはあろうかと思いますが、なぜこんな手の組んだことをするのでしょうか?

残虐だからですか?

 

いい映画だと思うのですが、マーケット・ガーデン作戦の進行経過が分からないと理解しにくくて、大味の作品と思われてしまいそうです。それでは残念なのでちょっとガイドします。



まず地名について。アーネムはアーンエム、アルンヘムと呼ばれたりします。
フラーフェ(ナイメーヘンの少し南の橋)は綴りがGraveなので、グラーヴ、グレーブ、グレイヴなどと書いてあるところもあります。日本語版のWikiにいたっては、両方を使用しているので混乱してしまいます。



ドーハン軍曹、上官、軍医のエピソード
 作戦第3日目の午前、ソン橋の西方数㎞の地点(ベスト橋)周囲での、アメリカ第101空挺師団とドイツ第15軍(フォン・ツァンゲン上級大将が司令官、モーデル元帥の部下、劇中に登場せず)との戦いでのできごとです。

これが史実と言われています。