毎年、1月17日が来ると、次女に聞かれます。
被災直後は、何が起きたのか分からず、全壊した家を見て、ただ涙が出た。
しばらく泣いた後、幼馴染の友達の無事を確認しに行き、それから様子を見るため、近所を歩き回った。
あちこちで家屋が倒壊していて、マンションの下敷きになっている人を助けたいのに、救急車が来ないと嘆いている人もいた。
しばらく公園に避難していたけど、頭を打ち、半身を打撲して動けない母を寝かせるため、朝8時に近所にある母校の体育館へ。
行くと、まだ私と近所の方の2人だけで、とりあえず柔道用の畳を借りました。
そのうち、だんだん人も増えてきて、すぐにいっぱいになりました。
体育館の床がたかったなぁ。
昼間は母を診察してくれる病院はないかと、探しに行きました。
車も、つぶれていたので動かせなかったから、弟の友達が連れて行ってくれたのですが、大渋滞で、全く動かない!
平常時なら10分で行ける場所も、2時間ぐらいかかって到着する有様で、やっとのことで着いた場所も、その先は進めませんでした。
高速道路が倒壊していたのです。
それを見た時、ただならぬことが起こったな、初めて現実を直視して、身震いしました。
家が全壊し、テレビもラジオもなく、情報が遮断されていたので、何が起きたのか、全く把握できていなかったのです。
結局、病院は3~4軒回り、夜8時に、ようやく診察が受けられたけれど、ケガぐらいではどうにもできないと、帰らされてしまいます。
停電や機器の故障で、検査もできないし、何より重体患者が多くて、その方々が優先でした。
だけど、ろくに治療はできなかったと思う。
病院はどこも、ご遺体と重症の患者さんとで、足の踏み場もないような状態でした。
体育館に戻り、夜遅くなって、ポールウィンナーが届いたけど、全く食べる気になれませんでした。
寒い夜だったけど、寒いとか、お腹がすいたとか、何も感じられなかった。
あるのは、ただ恐怖心と悲しみだけ。
17日は終日、トイレも一度も行かなかった。
余震が来るたびに、恐怖がよみがえり、眠くなることもなく、翌日を迎えたのでした。
以上、簡単ですが、95年1月17日のダイジェストです。
長女は、学校から「命・つながり」という小冊子を持ち帰って来た。
阪神淡路大震災を経験している家族に聞き取り調査を行い、それをまとめたもので、私も、寄稿させていただきました。
読んでみると、百人なら百通りの被災体験があって、同じ被災者として思いを共有できたような気がして、とても勉強になりました。

