第318話 祖父がくれた物
私は、平穏な生活を取り戻すために少しずつ
『全ては被害妄想だったのだ』という考えを享受しようと努めている。
だけど本当は
自分が目にしたものや聞いたもの
あれだけリアルな実体験が現実ではなかったなどと
本心から思うことは到底無理な話だった。
それでも
今は矛盾に目をふさぐしかない。
過去を生きるわけではないのだから
未来を想い、新しい世界を一から構築していけばいい。
そんな風に気持ちだけはやたらと前向きだったが
あいかわらず自らに侵食しきった恐怖心に悩まされていた。
いまだに出かけると尾行されているような感覚に陥る。
何かしらの違和感を感じると予定を中断してでも家に戻り
処方された精神安定剤を飲んでしばらく眠るという
日常生活もままならない状態が続いていた。
こんな調子では仙台に行くことは出来ないと思いながらも
俊ちゃんと離れていることにも限界を感じている。
いくら愛し合っていても
遠距離恋愛に耐えられるほど今の私はタフではない。
同じ季節に傍にいて
笑顔も涙も分け合えるのでなければ
付き合っていることに何の意味があるだろう?
本当はすぐにでも仙台に行きたいのに
行けないことには理由があった。
お金がなかったのだ。
通帳には二十万しか残っていなかった。
死ぬほど稼いだはずのお金は
いったい何に消えてしまったのか自分でもよくわからない。
退院する時に父はある条件を出した。
私が最低一ヶ月以上実家で生活をすること。
通院とセラピーに通うというリハビリを続けること。
それさえ守れば
仙台に行く時には金銭的な援助をしてくれるということだった。
最初はその条件に納得していたが
やっぱり我慢できそうもない。
私は考えた。
仙台で新しく部屋を借りる費用と
当面の生活費を考えると百万円は必要だろう。
また脱げばいい。 足りなきゃ身体を売ればいい。
俊ちゃんと一緒にいられるためなら何だって出来る。
安易な考えに流されて私の欲望は膨張していく。
『だめ どうしても逢いたい』
気持ちを抑えられなくなり
意を決して父の部屋の扉を叩いた。
「お父さん、私、もう仙台に行く。
やっぱり俊ちゃんと一緒にいたいの。 お金ないから… 働くね」
退院してから五日目のことだった。
父は読みかけの本と閉じて溜息を吐いた。
「もう少し我慢しなさい。
おまえは、まだ働けるような状態じゃないし、ましてや仙台に行くのは早すぎるよ。
お金ならお父さんが出してあげるって約束してるだろ?
そのかわり、最低一ヶ月は家にいるっておまえも納得してたじゃないか」
父が強い口調で言った。
「イヤよ! もう仙台に行く! 決めたの!
別に反対するのは勝手だけど、私の考えは変わらないよ!
自分で働いてお金作るからいいし!」
私は是が非でも自分の思い通りにしようと思い
いきなりカっとなって切れた。
「仕事って何をするつもりなんだ?
今のおまえには無理に決まっているだろう?」
「私は自分を売るしか脳のない女でしょ!!!
やれることは一つしかないよ! すぐにお金が欲しいからね!
お父さん、お金出してくれるの? くれないの? どっち!!」
どうしても仙台に行きたくて
まるで脅迫のような物言いをした。
父の瞳の中を絶望が横切る。
「落ち着きなさい。 お母さんと相談してくるから」
困り果てた様子でそう言い残し、父はリビングに下りていった。
取り残された私は
自分がなぜこんなにも切羽詰っているのか訳が解らず
自分勝手にわんわん泣いた。
『しかたがないの! どうしても俊ちゃんと一緒にいたいの! 今すぐじゃなきゃダメなの!』
その想いだけでいっぱいだった。
それだけしかなかった。
「まりも、どうしても行くの?」
母が泣いた。
「おまえのためを思って言ってるのに、どうしてわからないんだ?
一ヶ月でいいって言ってるんだよ? せっかくここまできたんじゃないか!
仙台に行くのは止めないよ! だが、万全の体勢で行きなさい!
それなら、お父さんもお母さんも全力でサポートするから」
父が必死で説得した。
「無理なの! 無理なのよ! もう行くから、止めないで!」
理屈ではちゃんとわかっていても
私の感情は全くそれに同調してくれない。
一度走り出した感情はどこまでも暴走を続ける。
苦しい! 苦しい! どうして私はこうなの!
なぜいつもこうなってしまうの?!
涙が止まらなかった。
父と母が顔を見合わせ
一呼吸置いてから父が切り出した。
「明日、お祖父ちゃんに逢いに行かないか?
おまえに渡したいものがあるらしいんだよ。 まりもを連れていくって約束してるんだ。
もうずっと逢ってないだろう? お祖父ちゃんもお婆ちゃんもおまえに会いたがってる」
「お祖父ちゃんに?」
「今のおまえは感情が昂ぶっているから、少し落ち着いた方がいい。
仙台へ行く話はまた明日にしよう。 いいね?」
今度は私をなだめるように父が言った。
「明日になれば私の気が変わってると思ってるなら無駄だよ!」
「とにかく… 明日、お祖父ちゃんに逢いに行こう。 それからでもいいだろう? いいね?」
私は少し考えてから頷いた。
「お祖父ちゃんに逢いに行くのはいいよ。 だけど仙台には絶対に行くからねっ!!」
横浜に住む父方の祖父母と逢うのは五年ぶりのことだった。
懐かしい木造の家に上がると玄関に蜜柑の箱が置いてあった。
昔から正月に挨拶にくると玄関に蜜柑の箱が置いてある家だった。
「まりも、久しぶりだなぁー まぁ座りなさい」
祖父が目を細めた。
「ごぶさたしてます」
私は挨拶をしてから
祖母が出してくれた座布団に座った。
父方の祖父母にとっても母方の祖父母にとっても初孫だった私は
幼い頃からとても可愛がられていた。
祖父は私の手を引いてよく近所の公園に連れていってくれた。
「ちーちぱっぱ ち~ぱっぱ」という雀の童謡を歌いながら。
「お元気でしたか?」
私は自分のしてきたことに引け目を感じながらも愛想良く笑った。
「おかげさんでなー、病気もせんで、達者に暮らしてるよ」
祖母がお茶とみかんをテーブルに置きながら言った。
祖父はすぐに奥の部屋から何かを持ってくると
「これを、おまえに渡そうと思ってな」と私に紙包みを差し出した。
受け取ると
手にずっしりと重量感があった。
「あけてごらん」 祖父がにこにこと笑った。
私は丁寧に梱包された紙包みを解いた。
「うわっ! すごい!」
中から出てきたのは
一kgの金の延べ棒だった。
「おまえもお年頃だろー。
嫁に行くときに持たせようと思ってね、準備しておいたんだよ。
実は爺ちゃんが買った時よりも金の価格は下がってしまったんだがなあ~
まぁ大切にしなさい。 絶対に売るんじゃないよ」
「はい! ありがとぅ。 お祖父ちゃん」
大喜びする私の姿を
祖父と祖母はもっと嬉しそうに眺めていた。
父と母はその様子を
せつなそうに見守っていた。
私がその金をどうするのかを
父と母がわからないわけがなかった。
両親は全てわかった上で
私をここに連れてきたのだろう。
翌日、神田にある『田中貴金属』というお店を訪ね
躊躇なく金を売った。
百二十万ほどのお金を手にした私は
その足で東京駅へと急いだ。
人気ブログランキング