第297話 死の恐怖
例の殺人事件の犯人が捕まってから二ヶ月がたっていた。
どれだけ記憶の糸を手繰り寄せてみても
その二ヶ月の記憶はまるで欠落してしまったかのように何も思い出すことが出来ない。
ただ、漠然とした事実があったことだけは判る。
私は俊ちゃんの子を中絶したのだ。
記憶が連続性を取り戻すのは、筆舌しがたいグロテスクな体験をした8月のある日。
その日が分断された記憶の終着点となっている。
――その日――
俊ちゃんは
トイレで吐いている。
今日はもう三度目。
トイレから出てきても
額にじっとりと汗を浮かべ
両手で腹の上を押さえている。
いつもに増して胃の痛みが酷いようだ。
「…大丈夫? 俊ちゃん…」
心配で尋ねた自分の声がとても小さく聴こえる。
私は憔悴しきって
ギリギリまで体力が落ちていた。
食べようと思っても何も喉を通らず
水だけを飲む日が続いていた。
俊ちゃんは
苦しそうな顔を上げると
「ごめん、本当にごめんな」と
窪んだ目を真っ直ぐ向けて謝った。
どうして謝るんだろう。
俊ちゃんは私に対して
何か悪いことをしたのかな。
わかんないなぁ。
「なにかあったの? 俊ちゃん」
私は首を傾げて尋ねる。
近頃は会話が成り立たないことが多い。
私は彼の言葉の意味がよく解らないのだ。
おそらく
彼もそれは同じだろう。
俊ちゃんは
絶望と恐れの混ざった眼差しを私に向ける。
見詰め合ったまま少しの時間が流れる。
私は悟った。
私は今日殺されるのだと。
とうとう敵は俊ちゃんに
『まりもを殺せ』と命令を下したのだ。
「……そうなんだ。 なら、一番好きな服を着るわ」
私はフラフラと立ち上がり
彼のクローゼットの中から
迷わずベビーピンクのワンピースを取り出す。
俊ちゃんが誕生日に買ってくれたシャネルのワンピースだ。
「……どうやって私を殺すの? ……方法くらいは教えてくれる?」
背中のファスナーを上げながら
腰周りがブカブカになっていることに気がつく。
俊ちゃんは悲しげな視線を床に落とすだけで何も言わない。
「教えられないのね……
……もう少し時間あるならベッドで腕枕してて欲しいな」
彼は黙って頷く。
俊ちゃんの腕の上に頭をのせ
死ぬことについてぼんやりと考え始める。
死んだら
スイッチが切れたみたいに
何もかもそこで終わってしまうのだろうか。
それとも
魂だけは残るのだろうか。
「私が死んだら、俊ちゃんは幸せになれるかも。
本物の天使になって、ずっとずっと俊ちゃんを守るから」
私は悲しく微笑みかける。
「…バカなこと言ってんな…」
彼の寂しげな瞳が潤む。
さっきから俊ちゃんは
チラチラと視線を動かしている。
強張った表情で
私の背後を気にしている。
私は後ろを振り返り
彼の視線の先にあるものを確認する。
俊ちゃんが見ているのは
ベッドの脇に置かれている電機スタンドのようだ。
電気スタンドのコンセントは部屋の隅のプラグに刺さっている。
コンセントプラグは
装置ごと室内にガボっと引きずりだされ
後ろの配線は銅線まで剥き出しになっている。
私が盗聴器の詮索のさい残した爪跡は
部屋の至る場所にある。
何故俊ちゃんは
電気スタンドなんかを気にしているのだろう。
私は虚ろな頭で不思議に思う。
そこになにか見えているのだろうか。
「……どぉしたの?」
私が訊くと俊ちゃんは「なんでもね」と顔を背ける。
なんでもないようには見えないけれど…
でも… どうせもう死ぬんだし… 考える力も残ってないや…
「…そぉ」
私は身体を彼の方に捻り
キュっと抱きつく。
愛しい俊ちゃん。
「天国には行けないだろうな、わたし」
その時
足元に違和感を感じた。
シーツが湿っている?
足先から下半身に向かって
シーツの湿度が上がっていくのが判る。
私は恐怖でベッドから飛び降りた。
濡れたシーツと電機スタンドが
とんでもない連想を生み出したからだ。
敵は私を感電死させるつもりなんだ!
死ぬことは怖くなかった。
だけど『感電』という方法には
喩えようのない恐怖を感じた。
怖くて怖くて
私は怯んでしまった。
「酷いっ! そんな… そんなのって…」
私はその場にうずくまり
今更のように声をあげて泣いた。
泣きながら覚醒剤をドカ吸いした。
残っていた二枚のLSDも丸ごと呑んだ。
それから俊ちゃんに包丁を渡して懇願した。
「お願い! 感電は怖いから、俊ちゃんが刺してよ!
私の最後のお願いよ! 俊ちゃん私を殺してっ!」
なのに俊ちゃんは
私の手から包丁を取り上げてベッドの下に置いてしまう。
「……そう、もう手順が決まっているのね」
最後の望みが絶たれたことで私は絶望する。
感電の恐怖を払いのけ
死を受け入れる覚悟を決めようと努力する。
脈が跳ね上がり息が苦しい。
感電死する前に
このままショック死してしまいそうだと思う。
怖いよ、怖いよ、俊ちゃん…
壮絶な恐怖心が私の中を通り抜けていく。
その時思いもよらないことがおこった。
体の芯が温かくなり心地良さが広がって
身体も心もふっと軽くなったのだ。
死の恐怖に直面しそれを受け入れてしまうと
極度の不安は反転して快楽に転化する。
それは
初めて体験する不思議な感覚だった。
「俊ちゃん、私の愛を信じてね?
私は命を賭けてこの愛を証明するのよ!」
私は感極まって言った。
俊ちゃんは背を向けて
声を押し殺して泣いていた。
「俊ちゃん泣かないで。 もぉいいの、いいのよ。
ねぇ、GLAYかけてよ」
私が頼むと
俊ちゃんは何も言わずに
青いパッケージのベスト盤をCDラジカセに入れた。
好きな服を着て
好きな曲を聴いて
好きな人の腕の中で死ぬ。
悪くない。
私が死んだら
お父さんやお母さんは悲しむだろうな。
どうしようもない娘だったね。
家出娘の成れの果て。
なんでこんなことになっちゃったのかな。
ごめんね。
カーテンの隙間から朝日が入ってくる。
夜があけても
敵は行動を起こしてこない。
私が眠りにつくのを待っているのだろうか。
何時間も
今か今かと感電の恐怖と戦っていると
一度は決めた覚悟が少しずつ揺らぎ始めた。
やっぱり怖い。
「俊ちゃん、お願いがあるの。
最後に外の空気が吸いたいな。 マンションの前まででいいから」
私は微かに聞こえるくらいの小さな声で耳打ちした。
私達はそのまま階段を下りてマンションを出た。
外に出るのは随分久しぶりだった。
黒いスーツを着た女がじっとこちらを睨んでいる。
大きな黒いバッグを肩にかけ
片方の耳にはイヤホンがはめられている。
「そこの公園までいい?」
気乗りしなそうな俊ちゃんの手を引いて
私は公園までの道を歩いていく。
振り返ると
女は正確に距離を保ったまま
私達の後を付いてきている。
公園に入り私達が足を止めると
女も公園の入り口でピタリと止まる。
その30メートルほど後ろに黒い服の男が二人現れ
こちらをじっと見ている。
片耳のイヤホンで敵の一味だということは判る。
朝の6時過ぎで周りに人通りはない。
中型のバンが公園の木陰に止まった。
やはり二人の男が乗っていてこちらを凝視している。
敵は絶対に私を逃がさないつもりだ。
「俊ちゃん、このまま二人で逃げようよ、お願い!」
意を決して俊ちゃんに頼んだ。
「どこさ行くの? 俺パンツだべや・・・」
俊ちゃんは困り顔で言った。
彼はTシャツにトランクス姿だった。
私はシャネルのワンピースに
彼のビーチサンダルをつっかけていた。
携帯も財布も持っていない。
逃げ切れるだろうか。
でもどこに逃げればいい? わからない・・・
だけど
これが最後のチャンスだ。
私は深く息を吸い込み全身に力を蓄える。
俊ちゃんの手を力強く握り
「必ず助けに来るから待っていて」と誓った。
俊ちゃんの手を離すと
私は一目散に走り出した。
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