第288話 音
スピードを吸っても
以前のようにはもう気分が高揚しなかった。
万能感や多幸感といった陽性反応の代わりに
神経過敏、疑心暗鬼、情緒不安定などの陰性反応ばかりが現れるようになった。
けれど
スピードを吸わないことには
まったく体が言うことをきかない。
いわゆる『潰れ』の状態がきつくて
スピードを止めるという選択肢はなかった。
不安や焦燥感は
まるで影のように私に付きまとい
24時間離れることがなかった。
だけど私は
自分の情緒不安定の原因が
スピードのせいだとは認めていなかった。
俊ちゃんと私の世界が
本来の完全な形に戻りさえずれば心の平安は取り戻せる。
元通りになればいいだけ。
――スピードのせいではない――
――敵はきっと他にいる――
狂気に苛まれている自覚はなかった。
「私は狂ってなどいない！」
そう言い張るほとんどの狂人達と同じように……。
本も読めなくなった。
スピードを吸えば
無限に続くと思われた集中力も
最近ではすぐにとりとめのない思考に邪魔されてしまう。
注意力散漫で
テーブル上の飲み物をこぼしたり
財布を持ち忘れて出かけるようなことが増えた。
一方で俊ちゃんは
私ほど量はやらないけれど
やはりスピード常習者特有の反応を示すようになっていた。
筋肉が強張り
力の入り加減がおかしくて
身振りが不自然になる。
ソワソワと落ち着きなく
時々支離滅裂なことを口走る。
だけどそれは
私がスピードを使用していると知っているから気付くだけで
きっと他人から見れば
さして気にはならない程度のことなのだと思っていた。
ただ
俊ちゃんは
いつも思い悩んでいる様子だった。
何か決定的な悩みを抱え苦悩しているように見えた。
毎日俊ちゃんの仕事の時間まで
近所のレンタルビデオ屋で借りてきた
映画を見るのが二人の日課だった。
その日は『クリフハンガー』を見ていた。
私達は
スピードを吸いながら
派手なアクションシーンに見入っていた。
俊ちゃんがスクっと立ち上がり台所に向かった。
シンクの水を
勢いよくジャージャー流したかと思うと
何事もなかったかのように私の隣に戻ってきた。
「えっ？ どうしたの？ なんで水流したの？」
私は不思議に思い尋ねた。
「……別に…… とくに意味はないべ」
「えぇ？ カップラーメン食べようとしたとか？ 意味なく水は流さないでしょ？」
「だから…… 意味はねぇって…」
俊ちゃんは顔を引きつらせる。
「何なの？ どうしたの？ どういうこと？」
「何でもねぇよ…… 何もねぇって……」
俊ちゃんの表情や口調は
明らかに動揺を隠しきれていない。
「何で台所の水を流したの？」
私はもう一度質問した。
少しの間があった。
「……最近、店にやぁ、店長の知り合いでヤクザが来るのさ……
すげータチ悪いやつらでさぁ、酒もいきなり飲まされるし……
たぶん疲れてるのかやぁ？ 俺」
俊ちゃんは
気味の悪い作り笑いを浮かべて
そんな付け焼刃な理由を言った。
「はぁ？ ヤクザ？ それと水を流したことと何の関係があるの？」
私はますますわけがわからずに俊ちゃんに詰め寄る。
水を流した理由なんてどうでもよかったけれど
俊ちゃんの尋常ではない挙動不審ぶりの根拠を知りたかった。
結局俊ちゃんは納得のいく答えをくれないまま出勤していった。
やっぱり俊ちゃんは何かを隠している。
あの不自然な態度は何かを誤魔化そうとしていた証拠だ。
私は確信を持ち
その理由を考え続けた。
わからなかった。
トイレに入った。
『カタン』
それはとても小さな音で
最初は聞き間違いかと思った。
壁に耳をあてた。
『カタン カタン カタン』
その音はとても小さいけれど
すぐ近くで連続して響いている。
隣の部屋だろうか。
奇妙に感じた私は
トイレの壁をそっと撫でた。
指先に些細なひっかかりを感じ
よく見ると画鋲の穴程の小さな穴があいていた。
その穴を指先でつつくと
中からティッシュのコヨリのようなものが出てきた。
コヨリで埋められていたけれど
本当は直径5ミリ程の綺麗な穴がそこには開いていたのだった。
どうしてこんなところに穴があいているのだろう。
その瞬間
私は驚愕して青ざめた。
盗撮されていたんだ！！
今まで点在していた複数の謎が一本の線で繋がった瞬間だった。
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