松山旅行 ③ 萬翠荘 正岡子規記念館
「萬翠荘」本館大正11年(1922年)、第17代松山藩主に当たる久松定謨(ひさまつ さだこと)伯爵が別邸として建設した「ネオルネサンス様式」の洋館です陸軍駐在武官としてフランス生活が長かった定謨伯爵好みの、純フランス風に建てられました戦禍を免れ、建築当時の様子をそのまま残す貴重な建築物として平成23年(2011年)重要文化財に指定されています左右対称ではない造りですね西洋建築の多くは左右対称ですが、萬翠荘は日本人の左右非対称の美意識に配慮して構成されています入口正面の赤い絨毯敷きの階段です手すりは継ぎ目の無い南洋チーク材の一本木で作られていますロココ調のインテリアが大正ロマンを感じさせます踊り場のステンドグラスは木内真太郎氏の作品それぞれのガラスの色彩は単一ではなく、アメリカ式ステンドグラスに倣いグラデーションが掛かっています2階の廊下です2階には、「伯爵室」「御居間」「貴賓室」などがあり、隣の部屋には直接行けるようになっています廊下から、部屋に入る扉の上には、アール・ヌーヴォーのステンドグラスがはめ込まれています貴賓室西側の角部屋ここで裕仁親王(後の昭和天皇)が滞在時に朝食をとられたのだそうです1階東南部にある「謁見の間」白を基調とした明るいお部屋ですサロンとして使用されていました結婚式もできるそうです大広間のシャンデリアは豪華な水晶水晶は幸せの象徴であると言われています萬翠荘の玄関扉木製の重厚そうな扉は、色あせて歴史を感じますガラスの中央には、「鳳凰」、ところどころに梅の花が散りばめられて、久松家の家紋「梅鉢」をイメージしたデザインとなっています大正ロマンの雰囲気が感じられる素敵な建築物でした道後温泉の方に移動し、〔松山市立子規記念博物館〕へ行きますこの博物館では、松山市出身の偉人である俳人・正岡子規の貴重な足跡をたどる事ができますこちらの入口から入ります『柿食えば 鐘がなるなり 法隆寺』は正岡子規が残した最も有名な俳句です正岡子規が生まれた松山は、子規が生まれる前から文芸が盛んなところでしたそんな街に生まれた子規は、幼い頃は大人しい男の子でした幼少の頃に父を亡くしますが、母方の親族に囲まれ賑やかな子供時代を過ごします小学校を出て、地元松山の藩校・明教館の流れを汲む松山中学校へと進学します松山中学校に通い、学業に励みながら、子規は少しずつ文化人として、そして彼の生涯の生業の1つであったジャーナリストとして歩み始めますその後子規は松山での勉学に飽き足らず、東京の叔父加藤拓川を頼り上京しますそこで出会ったのが、その後も彼の人生で唯一無二の親友となる夏目漱石でした東京で共に学問に励んだ子規と漱石は共通の趣味を通じて彼らが仲良くなるのに、そう時間は掛からなかったようです俳句を始めたのもちょうどこの頃、彼が18歳の頃だったといわれていますその後通っていた帝国大学を中退した子規は、日本新聞という新聞社に入社します社が発行する新聞の小さな欄を担当したり、記者として記事執筆の仕事を徐々に任されるようになりますその中で文化人として、ジャーナリストとしての才能を、彼は発揮し始めていきます入社から数年後、日清戦争が勃発 戦地の状況を伝えるべく、子規も従軍記者として戦地に派遣されます戦地に赴いた後、子規は日本へ戻る船の中で喀血してしまいます元々患っていた肺炎の影響もあり、身体の容体が良くありませんでした病気の療養をするべく東京に戻らず、生まれ故郷の松山に帰ります懐かしい土地に戻り再会したのは、松山で教鞭を取っていた親友の夏目漱石でした子規は、夏目漱石が下宿していた愚陀仏庵に療養のため居候しました1階に子規、2階に漱石が住み、52日間共に過ごし、俳句づくりに没頭しました愚陀仏庵(ぐだぶつあん、愚陀佛庵)は、夏目漱石が自分の俳号「愚陀佛」から名付けたという説と、正岡子規が「愚陀佛がいる庵」と呼称しているところから、正岡子規が名付けたという説があります記念館には愚陀仏庵の復元された部屋がありますその後子規は再び東京へ戻るのですが、そこで自身が脊椎カリエスという難病に侵されていることがわかります明治35年9月18日、亡くなる前に家族や友人に見守られながら辞世の句となる絶筆三句を最期の力を振り絞り自らの筆で書き残し、翌9月19日にこの世を去りました35歳の誕生日を迎える、1ヵ月前のことでした