福岡空港からは、レンタカーを借りて、まず向かったのは、小倉城
見て 雨男の夫との旅行らしくない青空~
小倉城
関ケ原の戦いの功績により細川家が小倉に入り、大規模改修を行つてから420年
全国有数の規模を誇る天守閣として親しまれてきた小倉城
高さは全国6位、1階の床面積は全国トツプレベルで、日本では3番目に大きいと言われる天守閣となっています
1959年に今の形に再建され、2019年には大幅リニューアルされました
現在はエレベーターも完備され、車椅子、ベビーカーの方も楽しんでいただいています
小倉城は訪れるお客様にさまざまなエンターテイメントをお届けできるよう、おもてなしの心をもってお迎えいたします
ーパンフレットよりー
しろテラスの前に とらっちゃ 発見
小倉城のマスコットキャラクターです
こちらの しろテラス には小倉城のお土産や小倉のお土産、そして、「辻利茶舗」のカフェがあります
後ほど、こちらでお土産を買うことにしましょう…
とても立派なお城… なんですが、隣の高層マンションとショッピングモール リバーウォーク北九州の巨大な赤い屋根がちょっと…
こちらには [大手門跡] がありました
だんだん、お城に近づいてきました
大きな立派なお城だなぁ~
宮本武蔵と佐々木小次郎が戦う像がありました
関門海峡を挟んで、この二人の対決シーン、あちこちで見かけます
お城の入口にやって来ました
こちらから、入ります
小倉城の入場料:350円
小倉城庭園の入場料:350円
松本清張記念館入場料:600円
小倉城&小倉城庭園 2施設共通入場券:560円
小倉城&小倉城庭園&松本清張記念館 3施設共通入場券:700円
今回、私たちはこの辺をじっくり散策したいと考えていたので、3施設共通入場券を購入しました
[小倉城]
細川忠興は、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の功により、豊前国全域と豊後国二郡を領する30万石(検地高39万9000石)の大名として入国、中津城に在城した
居城を小倉に移すため慶長7年これまでの小倉の城を廃して新しく築城をはじめ、その年の11月、小倉城へ移った
城の中心は、天守閣のある本丸と松ノ丸、北ノ丸で、これを囲むようにしてニノ丸、三ノ丸を配した
天守閣の外観は五重、内部は六層(現天守閣は、四重五層)である
これは、五重目の内部が上下ニ段に分かれているためで、五重目の下段までは、白壁が塗り込まれ、上段は黒塗りで張り出しになっている
また天守閣の屋根には、破風(はふ)がなく、当時この天守閣は、唐造り(からづくり)と称されていた
城のすぐ東を流れる紫川を天然の濠とし、この川をはさんで東西に曲輪(くるわ)を設け、城下町をつくった
城郭の総構えは、約8キロメートルにもおよび、これを濠で囲み、街道に通じる8か所の門を設けた
寛永9年(1632年)細川氏は、肥後国に移り、替わって播磨国明石城主(はりまのくにあかしじょうしゅ)であった譜代大名の小笠原忠真(ただざね)が小倉城に入り、15万石を領した
第二次長州征伐戦の慶応2年(1866年)8月1日、小倉藩は、田川郡に撤退する際、小倉城に火を放ち、城内の建物はことごとく灰じんに帰した
なお、天守閣は、天保8年(1837年)の火災で消失、以降再建されなかった
現在の天守閣は、昭和34年鉄筋コンクリートで、再建されたものである
ー下の看板の説明書きー
もっこ体験ができる所もありました
実際にもっこの片方を持つことができます
夫が担いで楽しんでいました
外国観光客から、「何してるんだい… 」みたいな視線を浴びせられ、
「マッサージ 」と、楽しそうに答えていました
「迎え虎」佐藤高越 筆
小倉城が焼失した慶応2年寅年(1866年)に因んで描かれた雌雄一対の「迎え虎」雄虎)と「送り虎」(雌虎)です
虎の額を少し離れて見ると、どこから見ても虎が真正面を向いているように見えます
(送り虎は2Fに展示中)
ー看板よりー
細川小倉藩初代となる細川忠興が関ケ原の戦いで着用したとされる具足です
細川家ではこれを「御吉例の具足」として尊重し、大切に守り伝えました
甲の顎紐部分は小倉織で作られていたといわれています
ー看板よりー
1602年(慶長7年)細川忠興が築城した時の小倉城の模型です
天守は、黒塗りで5階が4階よりも大きく設計されています
4階、5階の間に屋根のひさしが無いのも特徴で、当時は「唐造り」と呼ばれ、中国から伝わった朝鮮半島の城郭を参考にしたものと思われます
石垣の高さ、18.8m 天守の高さ、22.8mあり、ひときわ大きくそそり立っていました
ー看板よりー
「天守」の高さくらべ
一番高いのは大阪城、そして、名古屋城、島原城、熊本城、姫路城と続きます
いずれも子どもの時に行った記憶はあるけれど、詳細は全く覚えていなくて、また、ゆっくり、訪れてみたいと思いました
大太鼓
この大太鼓は、藩政時代に小倉城天守閣の最上階に置かれており、事あるごとに城下の人々に急を告げていたと伝えられている
慶応2年(1866)内寅の変における小倉城炎上後、長い間行方不明であったが、昭和43年(1968)小倉郷土会の調査により102年ぶりに発見され補修の後、複座されたものである
伝 寛永3年(1626)太鼓師 明石住 直吉 作
明石藩主であった小笠原忠真が小倉藩に入国した際に持ってきたと思われる
直径四尺(1m20㎝)、長さ五尺三寸(1m60㎝)
ケヤキ作りで牛一頭分の皮が使用されている
ー看板よりー
しゃちほこ が見えました 立派なしゃちほこです
鯱(しゃち)は、想像上の生き物で、頭は龍または虎とも言われ、胴体は魚、空に向かってそり返る尾を持っています
「しゃちほこ」の「ほこ」は、この尾の形が鉾(ほこ)のように上にそそりたっていることからつけられたもの
つまり鉾のような鯱=「しゃちほこ」という名になりました
しゃちほこは、建物が火事になると口から水を吐きだして消してくれるという伝説があることから、屋根の上に乗せられ、鬼瓦と同様に守り神として大切にされてきました
木造建築が中心の日本で、大敵となるのが火事
そこで、もともとは寺院などで、火除けの守り神としてしゃちほこを飾るようになりました
最上階の天守閣から、小倉の街(南側)を眺めます
中央に見える水色の丸い屋根の所が中央図書館です この辺りに二の丸があったそうです
この図書館、2012年岡田准一主演の映画「図書館戦争」の撮影で使われたそうです
右下の木々がたくさんある方に「松本清張記念館」があります
後ほど、行きます
現在見られる天守は『豊前小倉御天守記』『小倉城絵巻』『延享三年巡見上使御答書』等をもとに藤岡通夫の設計考証により鉄筋コンクリート構造によって復興されたもので、6千万円の費用を掛けて1959年に完成しました