絶望の福音書 -3ページ目

絶望の福音書

絶対的な絶望の中にある温かさを書きたい。

 今日は小説の続きを書く予定だったのだが、何となく気分がロボ哲学よりだったので、急遽予定を変更してロボ哲学を書く事にした。


 内容はタイトルにあるように「神と悪魔」に対してのロボの認識についてである。


 神は一般的には「善」と思われ悪魔は文字通り「悪」だと考えられるのが一般的な見解であろう。

 しかしロボは、はたして本当にそうなのだろうか?と考える。


 何故神は「善」で悪魔は「悪」なのだろうか?

 単純に「悪魔」という名前なので、悪い側にされている事に疑問を感じる事は少ないと思うが、突き詰めて考えれば違うのではないかという結論に至ってしまうロボ。


 これは偏屈な性格故なのだろうか。

 まずは神について考えてみよう。

 神はこの世を作り、人間を作った。

 神は常に人間を愛し、正しい方向へ導いてくれる存在である。

 おおかたこの様な認識で間違いないだろう。


 そして悪魔。

 悪魔は人間をたぶらかし、間違った方向へ人間を引きずりこむ。

 よく物語で語られるのは、悪魔は狙った人間の願いを1つ、もしくは3つ(基本的には3つが多い)くらい叶えてあげようと言って人間に近づき、そのささやきに乗ってしまった人間は、願いを叶えた後に魂を奪われてしまうというのが定説だ。


 だがロボ的に、これは本当に悪い事なのだろうか?

 願いを叶える対価として魂を貰うと最初に言う悪魔が殆どで、それを知りながら願いを叶えてもらうのは人間の方なのだ。


第一、  何かを得るにはそれなりの対価を払う事はこの世でも当たり前の事なのだ。

給料を貰う為には会社に決められた時間を仕事に費やさなければならない。

仕事もせずに給料をくれる会社なんて、世界中のどこを探してもないだろう。


悪魔と会社の違いは、最初に希望を叶え、後に対価を支払わせるのが悪魔。

最初に対価を払い、後に自分が生きる為の糧を支払ってくれるのが会社。

順番が違うだけで、そこに何の違いがあるのだろう。


多分、悪魔に最後に支払わなければいけない物が「魂」であり、それは死を意味するものである事から悪魔は人の欲望に付け込んで、最後には命を奪うという、人間が最も恐れる物が対価になっているから「卑怯な悪魔だ」と思い込んでしまうのではないだろうか。


 逆に考えれば、どんな夢でも叶えてくれて、最後は究極的に言えば「死」という安息を与える悪魔は、自分には手に余る仕事であるのにそれを強要し、残業代も付けず、最後には自殺に追い込んでしまうブラック企業のほうが、悪魔よりもよっぽど酷い存在なのであると思うのだが。


 しかもそんな辛い仕事を押し付けられている人を見ながら、保身の為に何も言わない人間達は悪魔よりも質が悪い。


 さて、次は「神」について考えてみよう。

 神は人間を作り、全ての人間を愛し、正しい道に導く。


「それ、ホント?」とロボは問いたい。

 考えてみよう。

 神は人間の行動を全て見守りつつ、いつも慈愛の手を差しのべる…的に言われているが、本当にそうだろうか?


 まず、絶体神と言われる唯一無二の神を信仰する宗教があるが、その絶体神はどこにいるのだろう?


 多くの小説、漫画、ドラマ、映画等では悪魔は人間を陥れる為に姿を現すが、絶体神が悪魔から人間を救う為に姿を現す事はない。

 姿を現すのは大天使や神の使いである。


「いや、イエスキリストがいるだろう」と思う人もいるかも知れないが、イエスキリストとは「イエスは神の子」という意味なので、イエスが神なのではない。

 イエスがゴルゴタの丘で磔刑に処された時に最後に言った言葉は「わが神、どうして私を見捨てられたのですか」だったと言われている。


 イエスを見捨てた神を書かれた書物や物語はロボの知る限りは見た事はない。(注・ロボが知らないだけかもしれないから、もしもあったらあしからず)


 ここまではキリスト教の話になってしまったが、他の神々の世界も見て行こう。

 キリスト教の他にもイスラム教やユダヤ教は一神教だが、日本は本来、神道という多神教であった。

 八百万の神がいて、最高神は天照大御神と言われているが、一神教とは違い様々な性格の神がいて、神々同士の諍いもある、一神教にくらべるととても人間臭い神々がいる。


 日本の神道だけではなく、ギリシャ神話や北欧神話、エジプト神話も多神教である。

 また、神という表現ではなく、仏と言われる仏教も多神教のひとつだ。

 仏教を作り出したのはゴータマシッダールタという実在した人物で、後に悟りを得て「釈迦」と呼ばれる。

 ちなみに創始者の釈迦は最高神(仏)ではなく、最高神(仏)は大日如来だ。


 …少し話が脱線しすぎて神について余計な事を書きすぎた。本来何を言いたかったか?という所に話を戻そう。


 さて、神に対してのロボの考えなのだが、悪魔と何が違うのであろうかという事だ。

 神の存在について、超ザックリと話すと「生前に良い行いをした人は天国へ行き、安らかな幸せに満ちた時を過ごす事が出来る。しかし、生前に悪い行いをした人は地獄へ落ちる」


 どうだろう?なにか違和感を感じないだろうか。

 良い事をした人は天国に行き、悪い事をした人は地獄へ行く。

 しかも地獄に落ちた人間は長い間、気が狂う程の罰を受け、当然すでに死んでいる身なので、生きている時には唯一の救いであるとも言える「死」という安らぎを享受する事も出来ない。


 本当に神が全ての生物を愛し、平等なのであれば、何故「地獄」は存在するのだろうか。

 間違った行いをした人間がいるのであれば、生きている内に救いの手を差し伸べるべきであろうと思うし、その間違いを正せぬまま死んでしまったのであれば、何故その生き方が間違っていたのかを、あの世で説き聞かせるべきなのではないだろうか。


 例えば酷い事をして死刑になった人間がいたとしよう。

 死刑囚の多くは、いつ自分の名が呼ばれるのか怯え、いざ刑の執行になった時は激しく嘆き悲しみ許しを乞うという。

 自ら罪を犯した人間が死刑にされるのはまだ納得できる。

 その死刑囚によって直接被害を受けた人間だけではなく、その被害者の関係者や、死刑囚の関係者にも、多くの苦しみや悲しみや怨恨を与えたのだから。


 が、しかし。

 自らが犯した罪で死を迎える瞬間に、それを知らない自分達には想像もできない程の恐怖の中で死んだ人間に、さらに追い打ちをかけて地獄へ導く。

 神とは一体なんなのか。

 ロボ的には、その所業は悪魔と変わりがないと考える。


 悪魔は人の魂が欲しいが故に、その対象の願いを叶えてやると同時に、願いを叶えてあげた後に魂を奪い去る。


 では神は。

 神が定めた「善と悪」の杓子定規で人間の生き方を判定し、神の眼鏡にかなった人間には、死後に天国という安寧の地を与えて賞賛し、神の杓子定規にかなわなかった人間は地獄という、絶える事のない苦しみの世界に放り込む。

 まるでブラック企業の会社の社長のような存在ではないか。


 極端に言うと、願いを叶えてやってから魂を奪う悪魔の方が、まだ良心的であるとも言える。

 結局いつもの内容になってしまうが、やはりこの世には。…いや、あの世にも「善と悪」なんてものは存在しないのだ。


 まあこんな事を書きながら、ロボは死んだ事がないので本当に「天国や地獄」があるのかも知らないし、「神や悪魔」に会った事もないので実際に死んでみなければ、このロボ哲学が正しいのか間違っているのかは分からないのだが。


 さて、最後にいつもの言葉を記しておこう。

 これはロボだけの世界観であり、他を否定する事はなく、自を押し付けるものではない。