私は人形。
名も持たず、意思も持たないまま、ガラスケースに入れられて、とても大切にされている。
毎日体を綺麗に拭かれ、髪を梳かされ、心から愛されている。
私は毎日されるがままで、私を大切にしている人がしてくれる事に何の疑いも持たないし、それが私にとっては心から幸せだと感じていた。
けれどある時、少しだけ状況が変わった。
私を大切にしていた持ち主が、私がもっと美しく楽しく暮らせるようになる為という理由で、今とは違う誰かと一緒に違う場所へ行けと言われた。
少しだけ私の心に雲がかかった。
でも私は人形。
私の本当の持ち主がいう事なのだから、それに従う事にした。それが私の幸せなのだと信じた。
新しい場所で、新しい人との生活が始まった。
新しい人は男性だった。
その男性も、私の事をとても大切にしてくれた。私もその人の事が好きだと思い込んでいたのだけど、私の本当の持ち主が私を愛してくれた程ではない。
それから新しい場所では、色々な事を覚える為に、やりたくもない事をしなければならなかった。
またひとつ、私の心に前よりも暗い雲がかかり始めた。
けれど私は人形。
意思なんて持ってはいけない。だから言われるがままに生きるのが運命だと思い込んでしまおうと決めた。
それから数えきれない程の長い月日が流れ、何事にも抗う事をしないまま過ごし、いつしか気づけば私の心は厚い雲に覆われていて、幸せという言葉を忘れてしまっていた。
その出会いは突然だった。
美しい景色を見ることが出来る窓際。
その場所は心が厚い雲に覆われていた私が唯一安らげる場所。
その日私は窓を開けて、私の心とは正反対な綺麗な青空を見つめていた。
一羽の鳥が、私が開け放っていた窓際に止まった。
「やあ、初めましてお嬢さん。僕の名前はリーベル。少しだけここで休ませてもらえるかい?」
「ええ、大丈夫ですよ。休んでください」
突然の訪問者にびっくりはしたけど、相手はただの鳥。ちょうどいい暇つぶしになるかと思って私はそう答えた。
彼は色々と私に話してくれた。
自分が雄の渡り鳥で、自由気ままに空を飛び、色々な世界を見てきた事を。
彼の話が面白くて、私は何故か分からないけど、すぐに彼に気を許してしまった。
「さて、大分休ませてもらったし、そろそろ出かけるか。休ませてくれてありがとう」
彼は大きな翼を広げ、飛び立とうとした時、つい私は声をかけてしまった。
「またお話に来てくれませんか?もっと色々な話を聞かせてもらいたいの」
「来てもいいのかい?実は僕も君と話すのが楽しかったから、できればまた会いたいなと思っていたよ」
彼が私に笑顔を向けた。
何故か私はその笑顔に強く心が惹かれてしまった。
「私は自分の意志を持たない人形だけど、それでも話に来てくれる?」
そう聞いた私に彼は言った。
「君が人形?僕には君は人間にしか見えないけどね。こんな自分勝手に生きてる鳥の僕でもいいなら、いつでも話にくるよ。僕も嬉しいしね」
彼は笑ってそう言い、大空へ帰って行った。
それから数回、彼と会って話した。
信じられない事に、人形の私と彼は、たった数回の短い時間に恋に落ちてしまっていた。
本当の持ち主に言われるまま違う場所に来て、新しい持ち主にも大切にしてもらっているのに、私の心にはいつしか厚い雲がかかっていたのに。鳥の彼、リーベルと話している時だけは、私の心の雲は消え去り、眩しく暖かい光の世界が広がる。
けれど私は人形で、リーベルは気ままな渡り鳥。
お互いがどんなに愛し合っても、本当の持ち主はそれを許す事は絶対にないだろうと思う。
そう考えると、また私の心に厚い雲が広がり、苦しくなった私はリーベルに聞いた。
「ねえリーベル。人生ってなんなの?何の為に人は生きなきゃいけないの?」
リーベルは笑いながら、まるで簡単な問題を解くように答えた。
「鳥の僕が言うのも変な話だけど、人生に意味なんてないさ。文字そのままの意味なんじゃないのか?人が生きている事。それが人生だよ。そして人の生き方は人それぞれ。自分自身が生きたいように生きるだけさ」
私は衝撃を受けた。
彼の答えは、本当に簡単なものだったけど、確かに人生とは、人が生きているという事だけ。生きる意味は自分で決める…。
「それに君は自分の事を人形と言っているけど、僕からみたら人形じゃないね。だって人形には心がないから。君は心を持っているだろ?君は自分を人形だと勘違いしているだけだよ。君は立派な人間さ。勇気さえ出せば、自分の好きなように生きる事ができる。僕みたいにね」
リーベルが追い打ちをかけるように言った。
私は…人間?
そんな事を考えた事もなかった。
突然私の過去の記憶がフラッシュバックした。
私は子供で、母や父にとても可愛がられていた事。
幼い頃は、自由に自分の好きな事を言ったり、好きな事をしていた事。
嫌いな食べ物は食べずに、好きな食べ物だけ食べていた事。
そうだ…。私は人間だった。
名もない人形なんかじゃない。
ユリア…。そうユリアという名前もある人間だ。
いつからだろう?
私は私を人形だと思い始めたのは。
大切な母、大切な父、大切な妹、大切な親戚。
その大切な人達の思いを裏切らないように、みんなが望んでいる私の理想像のままでいられるように、私は私の意志を捨てて、心を押し殺してしまったのだ。
私は人形なんかじゃなかった。
私の持ち主と言っていたけれど、持ち主なんかじゃない。
それは持ち主ではなくて、私の大切な家族だった。
私は一人の人間。
本気で自分の生きたいように生きる事も出来るんだ。
ただ、自分の生きたいように生きると、大切な人達を悲しませる事になるから、私は自分を殺して人形になっていただけだった。
私は人間に戻る事が出来るだろうか。
今の私にはやりたい事がある。
いや、逆にやりたくない事もある。
私はリーベルのように自由に空を飛ぶ事が出来るだろうか。
私が人形であれば、大切な家族達は安心するだろうけど、私の心は死んでしまう。
私が人間に戻れば、大切な家族達は悲しむ事だろう。
けれど私は今、心を覆いつくす分厚い雲を払いのけ、美しい青空に飛び立ちたい。
大きく深呼吸をして、窓を開け放った。
届くだろうか。
私は雲一つない美しい青空に向かって手を伸ばした。