ハイランド真理子のワンスアポンアタイム・オーストラリア競馬
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祐ちゃん先生との思い出。。。口笛を吹きながら

私は、全く競馬を知らないままに、競馬の世界に入ってしまいました。

亡くなった血統評論家の山野浩一さんが、オーストラリアのサラブレッド生産者協会に招待されて

訪豪、その後、彼が様々人たちを連れてきてくださり、更に山野さんは、

優駿に原稿を書かないかと、私を編集部を紹介してくださり

私は競馬の世界と関わることになりました。

 

その後、私は、その優駿に書いた原稿がきっかけになり、

日本の人たちのために競馬学校を3つ立ち上げることになるのですが。。

私がしてきたことの中で、学校の設立は、最も心が満たされる仕事でした。

とりわけ、現在、様々なところで、卒業生たちが頑張っています。

競馬の世界。競馬の外の世界で。

 

その3つの学校の全てに来てくださったのが、野平祐二先生でした。

祐ちゃん先生。

最初の学校は、ブリスベンの郊外につくりました。最初は学校の敷地が確保できず、

ドッグレース場にある建物を使ったのです。

外国で競馬の勉強をする若者を励ましたいと言って、何度もオーストラリアに足を運んでくれた祐ちゃん先生。

大好きな祐ちゃん先生。

 

オーストラリアは好きだなあ。

僕ね、厩舎に行くと、なんだか逃げ出したい気持ちになってしまうんだ。

オーストラリアに来て、数頭の好きな馬だけ調教してのんびり暮らしたいなあ。

 

そんなことつぶやいて、歌を歌いながら、祐ちゃん先生と一緒にブリスベンの街を歩きました。

祐ちゃん先生と手を繋ぎながら。

え?最初は、ちょっと驚きました。

でも、優しく繋いでくれる祐ちゃん先生の手。幼稚園の昔に戻った感じ。

後で、共通の友人に聞いたら、祐ちゃん先生は、僕の手も握ってきましたって(笑)。

子供のような優しい心の祐ちゃん先生。

 

この写真は、祐ちゃん先生がブリスベンに立ち上げた最初の学校に来てくれた時のもの。

今ではベテラン騎手と呼ばれる富沢希君や、メルボルンの郊外で騎乗をする太田陽子ちゃん。

それから、いつも祐ちゃんと一緒の元シルク社長の桜井さんご夫妻。あとは、誰だったかな。

ブリスベンの古い中華レストランで、楽しく食事をしました。

 

私は、いつも、実るほど頭を下げる稲穂かなという言葉を信じています。偉い人ほどえばらない。

祐ちゃんとは何度あっても、彼はえばらない。心のままに話してくれる本当に素敵な人でした。

 

オーストラリアに住みたいという彼の夢を叶えるために、私は、競馬管理母体にも話をして

祐ちゃん先生がこちらに来るのを待っていました。その夢はかないませんでしたが、

でも、祐ちゃん先生は天国で、口笛を吹きながら、私を待っていてくれるような気がしています。

 

祐ちゃん先生、また会いましょうね。

 

 

圧倒されること、それが大事。。と元吉永騎手はゴールドコーストで語った

吉永護元騎手と私は、彼の義母である吉永みち子さんを通じて知り合った。

吉永みち子さんは、血統評論家の故山野浩一さんからの紹介。

山野さんが、「真理子さんとそっくりな人を知っていますよ」って、彼女をオーストラリアに連れてきたのだ。

彼が、みち子さんに恋をしていたことがあることを、後で知った。もっとも、浩一さんは、恋の多い人で、

かなりの女性に恋を「もちかけて(笑)」いたことも、後で知ったのだった。

さて、話は、山野さんの話ではなく、吉永さんの義理の息子、護さんのこと。

私が、ゴールドコーストでトレインテック2000という学校のディレクターをしていた頃の話になる。

実は、すっかりその頃のことを忘れてしまっていて、昔の記事の整理をしていてこの記事がみつかった。

これによれば、護君は「しっかり」人生に大切なことをここで学んでいってくれたらしい。20年前のギャロップの記事です。

海外に行くと言うことは、「圧倒されること」。

そっかあ。牧太郎さんとはジャパンカップで会ったのね。21年前。

今、人生の整理をしています。あのDAN洒落とかなんとかという言葉が大嫌いなので、というより、流行りの言葉が大嫌いなので使いませんが、来月には、私は73歳になります。膵臓癌全摘5年。肝臓癌1年。あと100年は生きないでしょうから(爆笑)。あなた、このゴミどうするの?と、自分自身に言われそうなので、整理を始めました。そこでみつかった、20年前に書いていただいた牧太郎さんの記事。すっかり忘れていましたねえ。牧さんとお目にかかった時には、私は彼のことをあまり知りませんでした。彼が有名なジャーナリストということは知っていましたが。改めて調べてみると(最近は調べるのが簡単!助かる)、彼は早稲田大学。同窓。ほぼ同じ時期に大学構内を歩いていた。しかし、彼は志のあるジャーナリストとしての路を、私は、男を追っかけて未婚の母でアルゼンチン。そして、うっかり(苦笑)オーストラリアへ。私の、そのうっかり人生を、有名な牧さんが書いてくれたもの。 彼が、私のことを「女傑」って書いてくれているのには、大笑い。そんな言葉があったのね、当時は。今、そんな言葉使うと、「女性蔑視」と言われそう。でも、太郎ちゃん、あなたならいいわよ。女傑でもおケツでも書いてちょうだい。