不死身の花 第七回 | 是日々神経衰弱なり

第7回

■義理に泣く

約1年ぶりに親のいる家に戻ったというのに、落ち着いた生活など待っていようもなく、その日も、また14時ごろ玄関のチャイムが鳴った。いつものように、継母が3階のインターホンで対応したようだ。これは既に日課となっていた。

「ああ、来た来た。今日は早いな」
 
刑事が自宅を訪ねて来たというのに、別段あわてるでもなく、あたしの意識は、最早こんなものになりつつあった。玄関から2階に上がってくる刑事たちを、いつものようにあたしが迎えるため、階上の廊下で待っていると、普段は二人か三人なのに、この日に限って五、六人の刑事が上がりこんで来た。
 
今思えば迂闊だったのだが、父が留守だったことに特に疑念も抱かず、顔なじみとなった刑事らを応接間に通した。父からは連日のように、口を開けば「早く伊藤とのことを刑事に話せ」とけしかけられていた。あたしは、父からそう言われると、「嫌だ」と突っぱねて、たびたび口論に発展していた。刑事たちは、幼なじみたちと同様に、あたしを「とんこ」と渾名で呼んだ。

彼らとは、毎日のように顔を合わせていたので、しばらくすると、軽口や、個人的な話までするようになっていた。刑事たちは、息子が誕生日だったとか、昨日は家に帰れたので家族と面白いテレビを視たとか、そんな話をした。刑事にしてはずいぶんと他愛もない話であった。知らない人が見たら、親戚のおじさんと可愛がられている姪っ子みたいに映ったことだろうと思う。あたしも、彼らが刑事だということを忘れ、親しみすら感じていました。
 
その、他愛もない話の合間に「伊藤とはどこで会っていたんや? セックスは何回くらいした?」と訊かれるのだった。あたしが、「だから、やってませんって」と答えれば、それ以上は厳しく問い詰められることはなかった。数ヶ月、そんなやりとりが続いたろうか。このまま否定し続けていればいつか来なくなる、そんな風に思っていた節はあったと思う。しかし、その日はまるで違った。

「おまえも強情なヤツやな」

「素直にしとったら、よかったのに」
 
着席するやいなや、いつもと違うきつい口調に、あたしは動揺した。この日の刑事らの来訪に、初めて違和感を感じ始めた。そうだ、この人たちは刑事だった。うちを訪ねて来るのはあたしと無駄口をたたきに来ているのではない。あたしから、伊藤管長との異性間のやりとりを聞き出し、認めさせることが彼らの目的で、仕事で、それが使命なのだ。刑事の、刑事たる態度を初めて見て、改めてそれを思い知った。五人も六人もの刑事が一堂に会するなど、こんなことは、滅多にない機会であったとは思う。
 
刑事には、しつこく何度も同じことを訊いてきては食い下がり、泣きたくなるほどイライラさせる人、同情的に話を構築して籠絡しようとする人、親しみ深く話しかけてきて、あたしの心をほぐし、口を割らそうとする人などがいた。その中でも、しつこい刑事が一番苦手だった。あの手この手の誘導尋問をしてきて、いつまでも、諦めようとしない。
 
人は、幾度も幾度も同じことを言われ続けると、ほとほと疲れてきて、そのうちどうでも良くなってくるのだ。この手法は、ほとんど洗脳と言っていいかもしれない。日本の冤罪とはこんな風につくられてきたのであろうな、なんて思いが脳裏を掠めた。何もかも喋ってしまったら楽になるのに、そう思ったこともあった。
 
あたしがなかなか口を割らないので、あたしと伊藤管長の間には、本当に男女の関係はなかったのではないか、と疑念を抱き始める刑事もいた。しかし、こちらは嘘をついているのだから、時間がたつとともに、罪悪感が大きく膨らんで、それはそれで気が滅入るのだ。

本当はやったんだろ、どうなんだ、そうなんだろ、伊藤をかばっているのか、誰かに口止めされているのか、などと何時間も繰り返す粘着気質の刑事にあたると、最後は言葉につまり、感極まって、泣いてしまうこともあった。「そうだ」と認めることができないから追いつめられて泣いてしまった訳で、涙は、真実を言えない苦しさからの涙だった。
 
だって、そもそもあたしは、伊藤管長が嫌疑をかけられている脱税とは何の関係もないし、未成年のあたしが、伊藤管長との男女の関係を認めたところで何の罪に問われることもないのだから。伊藤管長と会わなくなってから数ヶ月が過ぎていたし、伊藤管長のことを誰かに口止めされたこともなかったが、あたしは、伊藤管長を庇っていた。別に、愛していたとか、そんなのではまったくない。あたしを助けてくれた恩人だという認識からだと思う。あたし自身は助けられた、そう感じていたから。心配もしてくれたし、住むところを世話してくれて、食べられない時にはお金もくれた。それよりも何よりも、父と潤子ママに連れられて行った伊藤管長の自宅での、あたしを想って父へ発してくれた言葉に恩義を感じていたからだ。「再婚した父親に家を追い出されて可哀想だった」「こんないい子を捨てたくせに。あんたは人間のクズだ、父親なんて言う資格なんてないね」「18になったらここに戻ってこい。俺の養女にしてやるよ」父からすれば、これ以上ない侮辱だったろうが、あたしにとってみたら、今までずっと父に言ってやりたかったことを、伊藤管長が代弁してくれた。「可哀想だった」。今まで誰も自分のことをそんな風に言ってくれた人はいなかった。それなのに、たった一度か二度、体を重ねただけの男の人がそんなことを思ってくれていたなんて。あたしは嬉しかったのです。
だが、この日はもう刑事から伊藤管長との関係について何も訊かれなかった。

「立て」

「行くぞ」
え? 何? ちょっと、どこに行くわけ? 警察署かな?

「ええと、どこに行くんですか。父が留守だから、言うていかんと」あたしはこうなってはじめて焦った。

「お父さんは知ってはる」

「え? あの、父が何を知っているんですか?」

「……」
 
応接間にもある、家中の全ての部屋に繋がっているインターホンを何回も押すが、自宅にいるはずの継母からは応答がない。刑事から問答無用で腕をとられ、「カチャリ」と冷たい手錠がかけられた。

「ほら、動け」

「さっさとしろ!」
 
その場に居座るあたしに、行くぞ、と刑事が促す。明らかに威嚇している。恫喝にも感じた。怖い。行くぞって、一体どこに?
 
玄関を出たら、目映いほどの晴天だった。手錠をかけられているこの姿を近所の人が見ていたら、何と噂されるのだろうか。むしろ、他人に目撃されるのは、あたしを煙たがっている継母には都合が良さそう。あたしの前と後ろに刑事がぴったりと張り付いた。
 
そのまま道路に出ると、通りの片側に警察車両が二台並んで停まっていた。そのうちの前に駐車してある車の方へ誘導された。後ろにいた刑事から、運転席の真後ろに乗れと指示され、そして、後部座席のあたしの横に、もう一人刑事が座った。好奇心から、この座り方には理由があるのかと訊ねると、容疑者が逃走しようとした際に確保しやすいため、との説明を受けた。なるほどなぁと納得した。残りの三人の刑事は後方の車両にざっと乗り込んだ。誰も、何も一言も話さない。全員が、あたしに意識を向けていた。あたしにも緊張感が走った。
 
南署に到着すると、迷路のような通路を経た奥に、その部屋は存在した。部屋の前には表札のようなものが立て掛けてあった。よく、ニュースやテレビドラマに出てくるやつ、板に毛筆で書いてあるアレだ。板には、

 
大阪府警本部 井上班

 
とだけ記されていた。南署に到着してからもずっと、その部屋に入るまであたしの前後は刑事が挟んだままだった。

「手間をかけさせやがって。さっさと認めていたら、こんな目に遭わんでもすんだのに。このバカが」
 
という声が刑事から発せられると同時に後ろから膝かっくんをされ、腰が砕けた。あたしは、自分の身に何が起ころうとしているのかまったく理解できないでいた。
 
大阪府警本部井上班の部屋には、中央に大きなテーブルがあり、その周りに椅子が八脚ほど並べられていたが、以前に来た時と、テーブルや椅子の配置が変わっていた。実は、ここには父と潤子ママらと伊藤管長の自宅を訪れてから間もなく、伊藤管長との関係について事情聴取というか、参考人というか、そんな理由で呼ばれて来たことがあった。それ以降、刑事たちは、あたしの自宅まで日参してくれていたので、この部屋に入るのは久しぶりだった。南署の建物は古く、相変わらずヨーロッパの古城のような造りで、建物内部の配置も複雑この上ないし、階段を上がったり降りたり、細い廊下を右に左に曲がらないと目指す場所に行き着けない。一、二回来ただけではちょっと覚えられない。もしもう一度ここに来ても、一人ではとうていこの部屋にたどり着く自信はないな、というようなことを考えていたら、それは今、この部屋から逃げ出せても、この建物から逃げおおせることは不可能なのだということに気付いた。あたしは、よからぬ考えを捨てた。
 
あたしを椅子に座らせたら、刑事たちは一人、二人を残して、みんなバラバラに部屋を後にした。大抵いつもは優しい刑事たちなのだが、この日はいつもと違って、眉間に深いしわを寄せ、あたしと視線を交わすことさえ避けていた。テーブルの上座には班長の井上警部が鎮座していた。部屋の中にはなんとも言えない異様な空気がたちこめていた。あたしの緊張感は頂点にあった。井上班長から、彼らの立場と捜査の概要を説明された。あたしは、耳を澄ませて丁寧に聞いた。彼らは、伊藤管長を逮捕するために忍耐強く内偵をかけ、ガサ入れの用意も整え、準備は万端なのに、予想に反して、あたしが一向に口を割らないものだから業を煮やした。それで自分はここに連れて来られたのだ、と理解した。日本は法治国家だ。あたしの証言が得られなければ伊藤管長の逮捕状は取れないのだから、その捜査も徒労に終わる。井上班長は続けてこう話した。

「おまえさんはよく頑張っているが、あまりしぶといと、刑事も人間やからな。伊藤を逮捕するために、ワシらは寝る間も惜しんで、みんな何ヶ月も費やしてきてるんや。協力してくれへんのやったら仕方がない。すこーし、頭を冷やしてきてもらうで」

「どういうことですか」

「……鑑別(所)行ってこい。しばらく」

「え、何で? なにで?」

「不純異性交遊、や」

「ふ、不純異性交遊って……」

「あのな、未成年がむやみにセックスするのを日本国家は認めてないんや」井上班長は大きく目を見開いてあたしを睨んだ。

「意味が分からんわ」
 
吐き捨てるように言い返した。

「おう、おまえ、ええ加減にせえよ! 調子に乗ってんのも今のうちやど。いま、ここで、素直に喋ってさっさとお家に帰るか、あくまでもワシらに楯突いて、非協力的な態度をとり続けて年少(少年院)まで行くか、鑑別の中でよう考えろ」
 
さっきまで、あたしと井上班長のやりとりを静かに見守り、様子をうかがっていた体格のいい刑事が吠えた。膝かっくんをした刑事だった。あたしは、テレビの刑事ドラマなどでこういう役割分担があるのを知っていた。

「ちょっと待って! なんでそんなとこまで行かなあかんのん?」納得ができずに食い下がった。

「あほう。おまえのせいで、ワシらの苦労が水の泡になるんや。5年は行くつもりでおれよ」

「そんなん無茶苦茶やわ!!」

「なにも無茶苦茶やあらへん。事実、おまえは素行不良やし、酒、タバコ、夜遊び、家出と、義務教育である中学にも行ってない。学校にも確認してある。反社会的な要素でいっぱいや。覚悟せいよ、5年はつけたるさかい、出てきたら20歳やのう。今から残りの十代をずっと年少で過ごせ」
 
さすがに最後の一言には青くなった。
 
それより、なんであたしがこんな所に連れて来られて刑事に脅されなあかんの? さっき、お父さんは知ってはるって刑事さんが言っていたけれど、まさか、これも父の差し金なのだろうか。


                                   第八回へ