吐露 | 是日々神経衰弱なり
人付き合いの下手な、不器用なあたしにも過去に親友といえる友達がひとりと親しい友達が何人かいたんだけれど。

あたしは本来あかるい性格なんかじゃないし、どちらかといえば誰かといても押し黙っていることのほうが多いひとなんである。旅先で心からはしゃぐ、というのも滅多になく、ある意味それは楽しく振る舞うことの効果を期待してのことがほとんどだ。自助的に。簡単に言えば自分で自分を盛り上げるため。一緒にいるひとに楽しいと思ってもらいたい、喜んでもらいたいと願うからだ。そういう気持ちが先立つ。別にイイコぶっているのではなく、身に付いてしまった芸風とでも考えてもらえないだろうか。しかし、こういっても誰も信じないかも知れない。だってあたしは息子にだって彼氏にだって旦那にだって大なり小なり暗い部分を覆い隠して生きて来たと言ってもいいと思うから。

なんでそんなことを?って自分でも思ったので、少し前に自分で分析してみた。本当のあたしを知ったら誰もあたしのことなんか好きになってくれないのではと恐れている部分が往々にしてあるからなんだという結論に至った。だって、難しい顔をした、暗いあたしなんて面白くも可笑しくもなし、一緒にいてつまらない女だと思うもん。一緒にいるひとに悪い。そんな女を友達にしようってひともいないだろうし、誰も遊んでくれないだろうし、誘ってもくれないさ、きっと。

そうなるのが寂しいから、そういう自分を覆い隠すクセがついたのかも知れん。いつの間にか。孤独に負けているともいえるね。

息子にも気を使うもん。だってあたしが暗いと、それでなくともあたしのハードな人生を背負って生まれてきてるのに可哀想だから。

そりゃ息子の前だろうが誰の前だろうが泣きたい時に泣ければ楽だろうなって思う。けど、もし隣室からあたしの泣きじゃくる声が聞こえたら息子は自分のせいではと考えて傷ついてしまうかも知れないと思ってしまって泣けない。泣きたくとも泣けない。だってあたしは泣く時は全力で泣くからね。尋常でないから。泣き方が。一緒にいてくれる男には老若貧富は関係なくそれを受け入れられる器量の人間もいたが、面倒だなって思っていた人もいただろうしね。で、その、このひと面倒みてくれなさそうだなってひとの心ない言葉や態度に傷つくくらいなら、そういう姿を見せない方が良い、というこれまた自己防御のひとつに走って自分の感情を殺すことになるという不毛。結局人間同士とはいいところばかり見せてはいられないのに片一方が自分の怒哀の感情の殆どを殺さなければならないような、甘えすら受け入れてもらえないような相手とは健康な関係が成立するわけない。心身健やかに過ごすことは難しくなってくるし。行き場のない感情は内に向かう。そうして人はこころのバランスを崩すようになりじきに関係はおかしくなる。自分が消耗するだけの関係なんてもたないもんな。恋愛ならね。

そう、甘えられない関係とは心を許せない相手ということになるから。自分の弱さを見せられないのは本音を言えないのと同じじゃないかな。あたしも人間だから悲しい時や辛い時もある。過去の苦しみや悲しみをまったく引きずっていないかといえば噓である。誰だってそういう部分はあると思う。けれど、身近なひとに甘えられないとなると破裂する。歳とってくると特にそういうのが大切になってくるからさ。大人になったら弱みを見せられないような上辺の関係などには意味をもたなく感じるしね。自分は与えても、相手から与えられない孤独って身に染みる。若い頃は、相手に心を尽くして与えあうことの大切さなんて考えないからね。

そういう人はあたしのいい部分(楽しい、面白い、優しい、一緒にいて楽とか)だけ都合よく欲しいんだろうなって思うし、本当のあたしとか闇を抱えて苦しむあたしには用がないんだろうから、何かの拍子に甘えてそういう部分を少しでも見せたらきっと面倒に感じるんだろうなぁって。そういうことには自分でも嫌になるくらい敏感だから、相手のことがどんどん信じられなくなっていく。それって自分が心や感情のある人間あつかいされないってことだから。相手はあたしが好きなんじゃなくて、自分を受け入れてくれ、甘えさせてくれ、優しくしてくれ、一緒にいて楽なあたしとだけいたいというわけでしょ。甘えるけど、甘えられるのは嫌という。だからって別にそういう相手にはあたしも相手を人間あつかいしなければいいだけなんだけどね。でもそういう関係って寂しいやん。なになに?世間のおおかたはそんなもんだって?まあそうかもね。あたしが恋愛や男に夢を持ち過ぎているのかもしれん。相手に幻想をみているだけか、はたまた錯覚したいだけかも。でももう歳だし、そんなものはどこにもないという現実を受け入れ、そろそろ諦めるべきなのかな。

本当のあたしって言葉があまり好きでないし、ちょっとしっくりこないけれど、でもこういう言いかたしか今はできないかな。。


好きな歌手の母親が投身自殺をしたことで、久々に人と自分が抱く孤独について考えてみることにした。



あたしは、子供の頃からの親しい友人をすべてなくした。ほぼ全員が自ら命を絶った。


無二の親友はあたしが21歳の時に首を吊って死んでしまった。あたしと旅行から戻った翌々日に。自宅で。

もうひとりは自宅マンションの12階から飛び降りた。この彼女は亡くなった親友の実妹で、無論あたしの友人でもあった。最後に会った時は話ができないくらい精神的におかしくなっていた。しかし、そのあとにあたしの知人でもある男と結婚して郊外で落ち着いた生活をしていると聞いたので、安心したのもあり、そっとしておいた。連絡を取ってわざわざ街に呼び出すようなことは意図的に避けたのだ。それからしばらくして彼女が飛び降りて亡くなったという訃報のすぐ後に、その男も続いて投身自殺したと聞いた。

別の友人は7階から飛び降りた。あたしはあることが理由で数年のあいだ彼女とは交流を断っていた。この子は奇跡的に助かったのだけれど、下半身不随の後遺症が残ってしまった。事故の後はずっと車椅子で生活しているらしい。助かってしばらく心の病の治療も再開していたが、病気はすすみ、現在は正気を失ってしまっているそうだ。なんで、あの時あたしは彼女を許してあげられなかったのだろう。

またもうひとり、親しい友人だった男の子は自宅寝室のブティックハンガーに電気コードをかけて首を吊って亡くなった。彼は亡くなる1週間前にうちに遊びに来ていた。亡くなる3日ほど前にも連絡を取り合っていた。彼の携帯電話の最後の発信履歴があたしの名前であったことをご家族からお通夜の日に聞かされて愕然とした。その日あたしは自分の携帯の電源を入れていなかったのだ。そのことが今も悔やまれる。もしかしたらあたしに助けを求めたかったのだろうか。

亡くなった友達は、みなあたしなんかよりずっと美しく、女優になっていてもぜんぜんおかしくない女の子たちばかりでした。中には某テレビ局のコンテストに優勝したような子もいた。ちなみに彼女が優勝したのは中学生の時で1万人近くの応募のなかから頂点に立ったのだ。アイドルという仕事も経験していた。男の子も、街中でもひときわ人目をひく美男子だった。彼、彼女らは性格も容姿もずば抜けて良かったのに。闇につかまって逝ってしまった。

あたしは大切な友人の誰ひとり救えなかった。生前、あたしは彼らに救われていたのに。

容姿に恵まれた彼、彼女らの近親、周囲には色んなひとがいた。

彼らに共通するのは、ひとに嫌われたり、また、怨まれるようなこともなく、誰にでも優しくて、自分のことより人の気持ちを慮るようなところがあったということだ。自分の気持ちは後回しにする、そんなひとたちでした。

優しくて誰にでも愛され、社交的だった彼らがどうしてあたしのような好嫌いの分かれるような不器用な人間に心を寄せて友達でいてくれたかは分からないが、お互いに「押し黙っていても分りあえる空気」があったからかな、とも今は思える。あたしたちに言葉や説明は不要だった。


誰にでも弱い部分はある。

優しさはとは強さだ。ほんとうの優しさとは誰かにあげるもので、他人のためにあるものである。だから、その優しさは自分に向くものでなく、他人へ向くべきものだ。でも、いつもいつも人を優しく受け入れてしまうと、自分の弱さを見せられなくなるという側面もある。弱さを見せられないでいるのは辛いことだ。人気者で誰からも愛された彼らにもそういう一面があったのかも知れない。そしてその一面を見せられるのが何故かわたしだったのかなとも。

しかし、わたしはその友人らを失った。

それからわたしは断然優しいひとになった。それらの悲しみを乗り越えて強くなったからだ(あるいは弱くなったからとも言えるか)。


現在あたしは彼らの気持ちが痛いほど分かるのだ。


なぜならいま、人に優しくなったわたしにも、自分の弱いところを「お互いに」見せられるような「言葉も説明も要らない、押し黙っていても分りあえるひと」が必要だなって最近すごく思う。


亡くなった友人らとわたしの共通点は、複雑な家庭環境に生まれたこと。一般的な感覚をもった両親には育てられなかったことだ。だが、それが友人として心を許す近道にはなったとしても、同じような痛みをもった人間が必ずしも相手を理解出来るということはないし、それが本当の救いや、ましてや助けにもならんのだということは悲しい出来事で証明された。逆に、ごく一般的な家庭環境で育っているからといって、複雑な育ちの人間を受け入れられないということもない、というのは過去の恋人や結婚相手に教えてもらった。


感じなくてもいいことを感じてしまう苦しさ。

気付かないほうが楽に生きていけるのに。





そういう人には他人と関わるほうが孤独を感じるってことがある。



あたしは人気者の親友が亡くなったとき、街中が敵で居場所を失った。そのころ助けてくれた人は当時の彼氏とあとふたりだけ。彼らはあたしを庇ったせいで世間から糾弾された。でもまったく動じなかった。彼らはとことんあたしを信じてくれ守ってくれた。だからあたしも彼らの言葉や行動を信じられた。時おり厳しいことも言われたけれど、でもそれは、噓偽りや自己保身でも偽善でもなく、純粋にあたしの為に言ってくれることだと感じることができた。彼らには何ひとつ矛盾がなかった。あたしにはそれが分かった。

だからこそ、その他の人間すべてに嫌われようが、なんて思われようが知ったこっちゃないわ、どうとでも思え。って思うことが出来ていたように思う。

人には何があっても絶対に自分のことを守ってくれる味方がいる、と感じられているときは唯一孤独から救われ強くなれる。

それは家族だったり、恋人だったり友人だったり。でもそれでも間に合わないで孤独から解放される道を選ぶひともいるだろう。あたしは味方でいたつもりだったが彼らを守りきることはできなかった。彼らからは与えらていたのにあたしは与えられないでいたのだと思う。どうしてもっと与えてあげられなかったのだろう、と長いこと自分を責め悔やんだ。結果あたしはひとりになってしまっていた。だからあたしは人に優しくなろうと思った。もっともっともっとって。






わたしが優しくなれたのは強くなったから。もしくは弱くなったから。
優しくして自分以外の人間を信じたくなったのか。
それとも他人に優しくなれたからこそ自分以外の人間を信じようと思うようになったのか。


優しくしたからといって、必ず優しくされるというわけではないのに。
心を尽くしたからって、相手も心を尽くしてくれたことばかりではない。

それに、いま思えば優しくしたときのほうが逆のことを返されることが多かったようにも思う。

「優しく」でなく「優しくし過ぎ」たんが問題やったんかな(苦笑)。



しかしよく考えたら確かに優しくし過ぎない時のほうが男とは長く続いた。。続いたということは、あたしが我慢していたか、もしくはなんやかんや言いながら居心地が良かったからだろうか。振り返って思うに、1番あかんパターンやったんは、あたしが甘やかし過ぎて相手が調子にのり、あたしが嫌になるというパターンだったと思うな。でもそれって結局は相手に優しくし過ぎたり我慢し過ぎたりするのは意味がないってか、逆に2人の関係があまりいい方向には向いていかないってことだよね。我慢にも種類があるけど。

誰だって完全に自分を解放できた人ってそう何人もいないと思うけど。でも片方が全く解放できないでいる関係はとうぜん片方に多く負担がかかっているというわけで。それを考えると解放できているかどうかのバロメーターとはその人の前でわんわん泣けるかどうかっていうのがあるか。自己の解放っていうと悲しいとか怒りという感情。泣きたくなっても冷たくされそうな相手の前では安心して泣けないもんね。違和感を感じてスーッと冷める瞬間があるもの。泣く時まで相手に気を使うのってほんと疲れるし。というか恋愛関係において気を使って泣けないような相手と一緒にいる理由なんてないってことかも。それで、遅かれ早かれそういう出来事に遭遇する度に、なんでこの人と一緒にいるんだろうなって疑問に思い始めるわけやしね。夢から醒めるカウントダウン。相手が泣き始めた時、ああもう面倒くさいって思ってしまうのは自分に気持ちないってことやし。同じことやんな。泣けるってことは相手を信用してないとできないこと。愛してるかどうかってことは相手の前で安心して泣けるかどうかってことだ。愛していないから泣かれると面倒くさいって思うのよ、きっと。






でも、あたしが優しい人間になったのは、自分と関わる誰かに優しくすることで許されたかったのかもしれない。
友人を救えなかった贖罪の意味で。これを自己満足といわれるのは別に構わない。この世のほとんどはそういう風に成り立っているって知っているから。



むかし、孤独しか知らなかったころ、あたしには他人に甘えなどなかった。

余計なことなど考えなかった。悪くいえば他人の気持ちなんて考えなかったからともいえる。若かったし、生きるのに必死でそんなことを考えられる余裕なんてなかったんだけど。でもそのころは、野性動物のように、もっと飄々と生きていたように思う。



今のあたしは自分が自分でいることで人を傷つけてしまうことが怖い。というのにとらわれているようなところがある。ようには思う。だけどもうそろそろそういうのも止めていいかな、とも。


生きている限り人を絶対に傷つけないでいることなんて無理な話だし、反対もそうだ。生きていたら傷つくこともある。

でも、少なくとも他人に甘えなど持たなければ孤独など感じないものだ。
他人に優しくして、優しさを返されたいなど弱い人間が見返りや対価を求める行為でしかないのかもしれない。優しくすることで優しくされる自分が欲しいのかも。そうやって確認したがっているのかな。



所詮そんなものでは孤独を埋められないと知りながら。


昨日より今日、今日よりより明日、より思い知る。




幸いにもアホやなって言われるのは慣れているし。



再び自己完結に向かう。寂しい人間になりたくないから。
自分の強さを取り戻したい。


「自尊心」いままでこの自尊心とやらに振り回されてきた。
この小さな自尊心のために何度覚悟を決めてきたことやら。けど、

あたしにあるのはこの小さな自尊心。だけ。他には何もないから。
誇れるのはこれだけ。自分だけのもの。何よりも大切にしたい。


この小さな自尊心のためにはいつでもなにもかも捨てられる自分でいようと思ってる。