心(マインド)は、大いなる存在(本当のわたし)にとどまることができなくて、そこから出てさまよいます。

 

 

そこから自我が生まれ、「私はこれこれだ」だから「あれとかそれではない」という形をとって現れます。

 

 

私は〇〇。というふうに、何かにアイデンティファイしたい、くっつきたがります。

 

 

本質的には1つのものが見かけの上で分かれていって、あらゆる形や存在が生まれます。

 

 

自己紹介をするとき、私たちは最初に「私は」と言って、それから名前や職業を伝えます。でも調べてみると、この「私」のありかを突き止めることはできないことに気づきます。

 

 

私は誰なのか?

 

 

私には確かに名前がありますが、その名前は私ではない。

 

 

感覚、思考、感情も私ではない。それらはどれも長続きせず、過ぎ去っていくものだから。変化するものは存在するとは言えません。

 

 

しかし、そのような長続きしない思考、感覚、感情とは別の、私という感覚は存在しないでしょうか?

 

 

生(せい)とも言うべき活動エネルギーのようなもの。

 

 

あらゆるものがそこから生み出されてくる源。

 

 

心が外をさまよっているうちは、気づかれることのない内側の存在。

 

 

言葉は存在していなくて。

 

 

そこに身体をおいてみる。