劇中の登場人物の私ではなく、劇を見ている側の私でいられると、生きていく上で、ある種の気楽さが出てきます。

 

 

ちょっとイメージしてみてください。自分の人生は劇であって、本当の自分はそれを眺めている側にいると。劇をながめている私が本当の私であると。

 

 

今私たちが生きている人生、そして日々の生活は劇であって、それを見ている私が本当の自分であると捉えられるようになると、生きることにおいてある種の気楽さが出てきます。

 

 

たとえばMarigoldという人物が劇の中に出てくる。その劇を私は見ている。劇の中ではMarigoldの日常が繰り広げられるわけですが、何のジャッジをすることもなく、ただながめている。その劇をただ見ている私。

 

 

劇の中でMarigoldが食事する、家族と会話する、仕事をする、だらだらしてすごす、寝坊する・・・。日常のあらゆる行為や出来事がそこで展開されるわけです。

 

 

Marigoldはいろんな人たちと交流していく中でいろんな経験をして、いろんな感情を味わいます。

 

 

それを私はジャッジすることなくただ見ている。

 

 

自分がそうしている場面を今思い浮かべてみてください。どうでしょう?

 

 

それが「気づいている私」というやつです。気づきの内容(劇)に気づいている気づきです。

 

 

ただ見ている。

 

 

これに対して、この見ている視点に自分がいることを忘れて、私たちは劇の中に入ってしまい、劇中の登場人物そのものになってしまう。するとどうなるでしょう?

劇中の登場人物(Marigold)に同一化してしまって、次々と湧いてくる考えや感情の中に入ってしまって、それに巻き込まれてしまいます。

 

 

特に、長い間押し込めている思いや感情に反応する出来事が起こると、自我・エゴの私と同一化しないではいられません。ものすごくリアルですから。ポップコーンを食べながら劇を見てるなんてことはとてもできません。

 

 

実際、私たちの多くは、自我・エゴの私としてのみ生きています。劇中のMarigoldになりきってしまって、それがすべてで、これが劇だということをすっかり忘れてしまっている。そこにはもう気楽さは無くなってしまっています。Marigoldという身体を持った、個の自分がいるという感じがとても強いです。

 

 

でも感情の解放をすることでこの感覚が緩んでくると、次第に力が抜けて、のびのび感や気楽さ、自分らしさというものを取り戻せるようになっていきます。

 

 

そしてこれは劇なんだという認識があると、劇の中の何かを変えたいという欲求は出てこなくなります。今あるものが今あるだけ、ただあるだけです。

 

 

この世にいる限り、自我・エゴの私でいることをなくすことはできませんが、もう1つの視点があることを思い出すことで、問題が次第に少なくなってきて、ものごとを深刻に考えすぎない、悩みすぎない自分がいることに気づくでしょう。