わたしのなかで
高度な社会
進化した社会
というものへの明快な基準があって
それは、
個々人がどれだけチカラをもっているか
というもので、
ここでいうチカラとは
「感覚・頭脳を駆使して判断行動する力」のことで、
退化・後退はその逆を指す。
ハードルが下がっているな。。
最近 予防的交通規制・通行止めというものを仕事帰りにくらって感じたのだけれど
コントロールする
コントロールさせる
ハードルがね。
管理規制する側も速度規制とかの段階すっ飛ばして
予防的といって即 通行止めにしちゃう。
そのうち感覚も頭も使わずに
リスク・危険・責任回避の大義名分で
判断ではなく問答無用の思考停止に近い状況になっていく。
不安を衝いて掲げれば黙るって。
それを受ける側も
しようがない
安心安全の為
リスク回避の代償
としてすんなり受け入れていく。
どちらの側も 失うのは 「経験」
「経験」の機会を失うと
感覚も頭も使えないから
自身で判断・行動 できない。
生きるチカラは縮小する。
政治も政府も
個々人のチカラが弱ければ
頼りにされて たすかる。
仕事ができるから。
仕事させてもらえるから。
もっとチカラを預けてくれ。。って。
でもそれは人類的社会的には退化・後退を意味する。
個人の裁量って大事。権限も。
それに付随して 責任 がある。
どこまでが 自身の責任か という問いや認識は重要で
それらへの無関心や放置は
チカラの明け渡し、権利の放棄 になる。
わかんない
面倒くさい
決めてくれ
私はどーしたらいい
それでは。。
いきるしかばね
これをしたら
自身が縮小するか
自身が拡大するか
何をするにもこの意識は大事だと思う。
・予防的・といって個人の裁量は抑えられ
・予防的・といってつくられた渋滞で3時間。
安全を担保に同意なく3時間という命を。か。
って。
何のための安全か。。
わたしはそのように思い感じ捉えたので
ここに記してみました。