「多様性」というのは「状態」のことであり、
我々のできることはその認識であって
それ以上でも以下でもない。
「ただそうである」ということ。
個人レベルで体験や見識を介し、その認識を更新したり深めたりして
自身を進化・深化 拡張していけばいい。
「多様性」の名のもとに「何かをしよう」とする。
そこには意図がある。
人の心の何にはたらきかけてくるのかをみればその意図がわかる。
揺さぶり不安にさせ貶め
感覚を鈍らせ存在をぼやかし
チカラを弱めたり奪ったり歪めたり。
その向かう先は
チカラの一元化。一極集中。
多様性といいながら「均一化」「平均化」「統制」「統合」「統治」
「おなじ」にして管理・コントロールしようとする。
「表現の自由」 というのもまた
それ以上でも以下でもなく「ただそうである」ということ。
「表現の自由」の名のもとに「何かをしよう」とする。
そこには意図がある。
人の心の何にはたらきかけてくるのかをみればその意図がわかる。
「表現の自由」という言葉が出てきたら気をつけた方がいい。
いつまでもその地平に引きずり込んで進化・進歩を阻む。
議論の余地などない「表現の自由」は文字通り「表現の自由」なのだから。
意識を向けるのはそこではない。
意識を向け さ・せ・ら・れ てはならない。
することは ただ一つ。
個々人が自身に「問う」そして「選ぶ」
たった一つの基準で。
自分にとってそれが「役に立つかどうか」問うて選ぶ、選びなおせばよいだけ。
「表現の自由」という 言葉 が消失した時
社会は進化・進歩・成熟した状態をむかえる。
※表現が制限抑圧されていれば当然その 対 で自由という言葉は
発せずとも、その姿見せずとも存在することになる。
同じ概念として採用しているという意。
人は創造をする。
その創造物には意図がある。
込められたものがある。
だから白雪姫の役が物語の創造の源と関係のない人種にはならない。
原作者は人種という概念を創造のたちあがる源においてはいない。
原作者の創造の源に人種の概念はない。
第三者が人種の概念をその作品に持ち込んだ時点で全く別の作品、
別の意味合いを持つ表現となる。
いや、表現の体をなさない。
元の作品の意図や込められたものが侵害されているのだから。
それは作者を貶めその作品の侵害と捏造でしかない。
飛ぶ鳥をみて、「ひとも飛べなければ平等じゃない、差別だ」
と真顔で言っているに等しい。
それは神の不完全さを語るようなもの。
「おなじ」というのは時には狂気だったりもする。
ある動画をみた。
マカロニチーズをつくるイタリア人シェフ。
そこに女性がひと言。
ハムをいれたらブリティッシュカルボナーラになる。。と
イタリア人シェフ。
「おばあちゃんに車輪をつけたら自転車になるっていってるようなもの。」
爆笑。
イタリア人シェフ。
「レシピ違うじゃん。」
その刹那
笑いの反対方向に振り切った深刻さを垣間見た。
「おなじ」「なんでもあり」な世界へと舵をきる傾向の現実。
このイタリア人シェフの
「レシピ違うじゃん。」の言葉の重み。
先にも述べた
人は創造をする
その創造物には意図がある
込められたものがある。
「おなじ」「なんでもあり」は
創造の弱体化・放棄につながる。
創造をやめたら人ではなくなる。
創造は人が持つチカラ。
創造を介せば「違和感」を感知し
概念レベルで振り回されず 概念で操作されず。
チカラを奪おうと画策する動きを回避排除できる。
創造のチカラを奪い世界を弱体化しようとする意図には
創造のチカラを鍛え磨くことが守護となり
よこしまな意図はそのチカラを得ることなく消えていくのみである。