先週の日曜日、懐かしい人達と再会する機会がありました。

かなりレアな国の方なので、まぁ国名はバルト三国の中のとある国、杉原千畝さんと縁の深い国としておきます。←ここまで書いてしまうとアッサリと解ってしまう方も多いとは思いますが…

この御家族、物理学者(私とは非常に縁遠い学問で御座います。これ学ぶんなら外国語を勉強する方が絶対に面白いし、まだ簡単だと思う)であられるご主人のお仕事の関係で来日され、我が県の某国立大学で研究をされてました。
おそらく、こちらで8年おられて、その後、ご主人の先生が北の大地にある、あのクラーク博士(私の世代では英語の教科書に載ってましたね。)で有名な大学に赴任されるので、研究室のメンバーごとごっそりと引っ越して行かれました。
彼らは北の大地に更に三年程留まられ、遂には、狭い日本を飛び出し、赤道を飛び越えてカンガルーとコアラの国に行ってしまわれました。勿論、お父さんのお仕事の関係で。

で、今回、お父さんのconference、学会ですかい?の関係で、短期間日本に滞在するので久しぶりに会おうと言う事になりました。

さて、ここからが本題ですよ。
このご家庭の長男君、日本に来た時は小学二年生でした。最初は勿論日本語は全く話せない、読めない、聞き取れない、だった訳ですが、子供だったのと、元来頭の良い子だったんでしょう。何度か会ってるうちに(その期間、多分一年位と記憶してます)気が付くと、普通にオラが村の言葉、つまり此方の方言をマスターしてました。

で、北の大地に移られて、彼が18か19の頃にカンガルーの国に引っ越して行きました。
それまでは、長男君は、家庭では彼らの国の言葉で会話し、学校では日本語を話してました。つまり、普通の日本の学校に行ってたので、英語はテストで良い点は取っても、聞き取れないし、喋れなかった訳です。
コアラの国で大学生となった長男君、最初は、勿論、講義で先生が話すスピードに着いて行けなかったそうで、ノートも英語で取る事が出来ないので日本語で書いてたそうです。
周りの学生諸君は、何処からどう見ても西洋人の長男君が漢字や変な文字を駆使してノートを取ってるのを目にし、とても不思議に思ってたそうです。
そんな彼も二年目には講義に着いて行けるようになり、三年目にもなると、ディスカッションでは周りをリードするまでにもなったそうです。

そして、昨年12月(かの国の学期制は1月に新年度が始まり12月に終わるそうです。)にめでたく大学を三年で卒業し、お父さんのカンファレンスの通訳兼日本での企業の面接の為に帰って来られたと言う訳でした。

私は、彼の英語が凄く自然で上手なのにはさほど驚きませんでした。
しかし、彼が、日本を離れてから4~5年も経つにもかかわらず、日本語を、ちゃんと覚えてて普通に話す事が出来てたと言う事には、とても驚き感心しました。
目を閉じて聞いてると日本人と話してると錯覚する位でした。
普通なら、長年住んでた国の言語を聞く事は出来たとしても、自分から話すという事になると、語彙を忘れて来てて難しい筈だと思うんですが、彼が忘れてた言葉はトランプゲームの神経衰弱のみで、他の経済だの年金だの、大人の会話の日本語をちゃんと聞いて理解し、自分の意見を述べる事までしてました。

では、どうやって日本語力をキープしたのか?と質問してみると、なるべく日本語に触れるように頑張ってたそうです。
友達とメールをするのは勿論、何と、あのホリエモンのニュースレターも購読してたそうです。おそらく、現在もそうなんでしょう。

今回、関西空港に着いて彼が一番最初にやった事は、本屋に行って日本語の本を買う事だったそうです。
何を買ったか?勿論尋ねてみましたよ。
これまた、本格的な回答でして、またまたびっくりしましたよ。
先ずは、今流行りの永遠の0(うちの長女と三女は一生読む事はないでしよう。母の永久保存本の中の一冊なのに…)、更には、ホリエモンさんの著書(日本を離れててもホリエモンさんが塀の中の住人でおられた事も知ってました。)
後、何冊か名前があがってたけど、忘れてしまいました。東野圭吾さんもあったと思います。

彼と面接をした会社が、彼を採用するかどうかは不明ですが、少なくとも三ヶ国語を話せる人材ってヨーロッパなら兎も角、日本では、なかなか得難いと私は思います。
因みに、彼、One directionのメンバーの中の一人に似てかなりのイケメン君でした。顔もええって、羨ましい。


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