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mariagloria-amenのブログ

手帳に記録したメモ
新聞の切り抜き
過去のもの今のものも
振り返ってみても心に刺さったり
すっかり忘れてしまっていたり・・・
言葉を紡ぐ、というよりはただの記録かな

 

 老年の私が、この期に及んでもまだわからないと感じていることはいくつもあるが、その一つが、実体験と書物による知識は同じに考えていいのか、という点である。それどころか全く異質なものだ、と私は考える時が多い。

 最近の小学生が大人も及ばない物知りだという実感はもうはるか昔からあったけれど、教育の現場や機械が人間に教えてくれるものと、現実の生活から私たちが学ぶものとは、質にも量にも雲泥の差がある。読書はそのどちらに属するかというと、ちょうど中間あたりの感じだ。

 道徳もまた同じ。昔の修身の教科書には、宗教書にも通じる立派な話がたくさん書いてあったけれど、人間、生き延びるためには、道徳など踏みにじらねばならない時もある。その無類の意味と扱い方を教える大人はあまりいなかった。この部分もまた、私の独学だった。

 地球上の大地もそれを示している。日本のように国土の多くの部分が、水に恵まれた豊かな黒い土に覆われている国と、アラビアのように水源も限定的で、大地が砂に近いやせた土地である場合とは、基本条件が全く違う。

 豊かな産油国では、若者が近場で通う大学には、心理学科も英文学科も哲学科もなく、すべて石油に関する専門知識ばかりを学ぶ科なのだと知ったのは、割と最近である。

 アラブの某国にいた時、石油を掘り尽くした後「わが国はどうなると思いますか?」と真剣に私に尋ねた若者が一人だけいた。

 産油国はお金持ちで羨ましいと思っているが、国の経済を支えるものが主として石油だけというのは「貧しい」話だ。人間は状況の変化に耐える備えがいる。幸運にも健康にもすべてに見放された場合にも自立できるように備えねばならない。向上を目指しながら、同時に不運や不幸や病気からも立ち直る体制を用意しておかねばならないのだ。

 私は若い時から、取材先としてパリやロンドンなどへ行く機会にほとんど恵まれず、いつも途上国を旅して歩く羽目になった。その時に役に立ったのは、不運に備える心身の姿勢を少し鍛えることだった。途中で所持品を盗まれ、無一文になったり、それでもまだ旅が終わっていない、という状況になったらどうしたらいいか教科書のない学問だ。

 しかしそんなくだらない用意を怠らなかったから、私は今まで無事に生き延びているのかもしれない。

 家庭的には、私は不仲な両親の許で育った。私は子供の時から、他人の心理を憶測し、嵐を避ける方法を覚えた。それもすばらしい教育だった。しかし子供の教育のために両親が不仲でいいということはない。家庭は穏やかで毎日心休まる平安の場であるべきだ。

 こうした矛盾を考えていくと、教育を学校の手だけになど委ねてはいられない。教育の基本は読書であり、独学にあると言いたくなる。独学というより実学だ。

(その あやこ)

 

令和2年(2020年)日付不明・・・

産経新聞 ~小さな親切、大きなお世話~ 切り抜き 【作家 曽野綾子】