不登校
引きこもり
孤独死
これら
社会問題のほとんどは
予防されていいはずの
問題だったと
個人的には
思っています。
昨今、個人主義や
多様性が
流行りみたいに
叫ばれているけれど
そもそも
みんな違う
心と体を持って
生まれて来ています。
だからこそ
他者を知り
他者を思わなければ
生きていく事が
ままならないのに。
みんなが自分と同じなら
自分がみんなと同じなら
生きていくのは
もっと楽に
なるのでしょうか?
人々を
画一的な方向へと
誘導、扇動する
商売言葉ばかりが
世の中に
闊歩し始める時点で
人々の心は
行き過ぎていたり
全く追いついて
いなかったりする。
言葉ばかりが
先走った結果
現実とのギャップから
危険な予兆を察知出来ない
鈍さを社会が
担保してしまっている
そんな気もしています。
そもそも、
誰かが決めた
普通という
基準の中で
おかしいぐらいに
いつもどこかで誰かが
傷ついていることが
当たり前な
世の中になってしまった。
幸せの基準なんて
競争の中にはないし
ましてや
普通とか
そうじゃないとか
言う方だって
どうかしている。
誰しもが
物心と
抱き合わせのように
他者と比較する気持ちを
持ち合わせて成長していくけれど
それを求められ過ぎれば
自分の心なんて
見失うのは
思うよりずっと
簡単なんだと思う。
鬱屈した言葉や
精神が溢れる
社会の中で
人が犬猫に
惹かれ続けるのは
見た目の可愛さ
ばかりでなく
一切の疑問もなく
しなやかに
与えられた環境を
受け入れ
恨み辛みもなく
生き抜くことに
純粋であり続ける
彼らの生き様に
心が慰められるから
なのだと思うのです。
我が家の犬猫達も
ライラの羅針盤の
デイモンのように
常に私のそばにいて
私の心を裏に表に
支える役目をつつがなく
果たしてくれています。
一人の人間を
人間たらしめるためには
多種多様の
命との関わりや
支え合いが必要です。
人間社会が
自家中毒を
起こしている現代
人が人を救うこと
育てることにも
限界が訪れています。
家の中で
寝てばかりいる
彼らです。
でも、ただ一緒に
一つ屋根の下で
過ごしているだけで
猫達には
個の素晴らしさを
犬達には
群れの素晴らしさを
学ぶ日々です。
彼らと支え合うことで
穏やかな日々を
暮らしていた
人と犬猫の
深い絆に立ち戻り
好きとか嫌いではなく
命や心のあり様を
今こそ彼らから
学び直す時だと
心から思います。
暮らしの中に
犬と猫がいることの
豊かさと
素晴らしさと
ありがたさを実感し
この必然の出会いに
感謝するばかり。
彼らや誰かから
教えてもらおうと
するのではなく
真摯に瞶め
学び取る
気持ちを持つことで
初めて
世界は違った光を
放ち始めます。
見た目を同じくする
犬猫達でも
一頭一頭の個性は
一つとして
同じではありません。
彼らは言葉も持たず
その生き様や
存在そのもので
心や命の奥深さを悟らせる
私達人間にとって
究極の教師なのです。