犬の福祉。
これは国際基準や
人によって
考え方は
色々あると思いますが
私にとっての
犬の福祉は
犬達の短い一生の
どれだけを
人間との健やかな生活で
満たすことが
出来るかどうかにつきます。
基準を大衆化させるため
数字的、量的な基準を用いて
犬の福祉を語る方もいます。
私としては
数字的なこだわりよりも
とてもシンプルに
人と犬とが
一つ屋根の下で
心を通わせながら
犬のニーズを十分に満たし
健やかな精神で
社会生活を共にし
喜びと感謝の中で
犬と共に在ろうとすることが
一番大切なんだと
お話しすることにしています。
先の記事に
「犬の福祉」と書いたのは
そうした意味合いです。
犬達の心身の安寧は
穏やかで愛情深い
飼い主との落ち着いた
暮らしの中にしかありません。
寝食を共にしてくれる
飼い主の存在と
その声と温かな手に触れられて
犬達は初めて
心からの安心と安全に
癒されるのです。
彼らの看取りまでの
安寧な暮らしを考えたなら
拙速な譲渡は出来ません。
人馴れしていない子ほど
人との穏やかな生活が
一番の薬になりますが
それを受け入れてくれるほどの
愛情とそうした子に対する
知識や共感力がなければ
愛着を持つこと自体
難しいのが
人間の心なのです。
社会性のある動物にとって
社会からの隔絶は
死刑に等しい罰として
私達人間社会にも
適用されるほどに
酷なことです。
センターに長期間留め置かれる
センターから出たとしても
同じような環境に
留め置かれ続けるとしたなら
命自体は繋いでいたとしても
心を殺し続けていることと
同じなのです。
終わりのない日々に
囲い続けることを
美談にするのは
いい加減にしてほしい。
犬達からすれば
毎日、つかの間の
人との接触に
希望を見ては
次の瞬間に
絶望することを
繰り返しているのです。
もし、我が身に
置き換えたなら
耐えられない仕打ちです。
どんな人でも
明日の命すら
わからないのが人間です。
私達は神様ではありません。
救えるとか
助けるとか
何様かと正直思う。
一見、命を
救っているように見せかけて
苦痛に満ちた一生を
与え続けることは
殺処分と同じくらいに
酷いことです。
動物達に感謝し
こうべをたれること以外に
人間に出来ることなんて
基本的にありません。
命に対して
どんな人間も
冷静なジャッジが
出来ないからこそ
数字的なかたちで
線引きする形を
取らざるを得ないのです。
木を見て
森を見なければ
社会の秩序は保たれません
無秩序な社会には
犬達の安寧は存在しません。
しかし
森ばかりを見て
木を見なければ
やがて森全体が
枯れ果てるのです。
目の前の1頭だけを見て
他の100頭を見ないで受け入れたなら
彼らを守るべき
人間側の機能は簡単に停止します。
100頭を生かすことで
一頭一頭の命に
目がいかなくなれば
100頭の犬達の命すら
危機に晒すことになるのです。
殺処分は
社会の秩序を保つための
ただの「機能」として
存在しているのです。
そこに感情はありません。
動物からの
恩恵を受ける人達が
すべての命に感謝し
慈しみをもって
看取ることが当たり前な
社会にしていくこと
そう努めることだけが
失われた命に対する
唯一の餞になるのです。
声なき声に
共感する力や
物事の本質を見抜く力を
持ち得ないなら
弱者に寄り添う
ボランティアは
するべきではありません。
わかりやすい
激した感情で繋がれば
わかりやすい
激した感情によって
崩壊していきます。
それは
どんな組織でも
同じです。