物事には
必ず陰陽があります。
良い面と悪い面の
どちらか一方はありません。
殺処分は避けたいけれど
犬達を苦痛から解放するために
私達に出来ることが
今は、それしかありません。
それが難しいなら捕獲せず
野山に犬が溢れることによる
様々な被害を
甘んじて受けるしかありません。
京都の河川敷に野良犬の群れが
十数頭集まっただけで
大騒ぎの世の中に
それを強いることが
許されるでしょうか?
犬が溢れかえるままに
箱を作り続け
犬を詰め込んでいくばかりで
お世話もままならなければ
人慣れなんて夢のまた夢です。
そのリスクを何一つ取らないで
綺麗事ばかり並べ立てて
バッシングする様は
ワガママを許され続けて来た
子供じみた駄々っ子にしか
見えません。
表面的には
言葉綺麗で
おしとやか。
裏に回れば独善的で
口汚く
身勝手な支配者。
よくある話です。
犬を口実に何を実現
しようとしているのか。
人慣れを
必要としている犬達を
率先して
引き取っていたなら
こんなことに
はなっていません。
人慣れしていない犬達に
見向きもしないで
人の興味を引ける
シニアや病気の子ばかりを
引き出すことは
寄付目当ての
ていのいい引き取り屋。
愛護以前の
人間性の問題です。
可能な範囲で
いろんなタイプの犬猫を
バランス良く
引き取るのが
愛護団体の暗黙のルールです。
でなければ
早い者勝ちのように
譲渡が決まりやすい子たち
ばかりに人手が
集まるからです。
ここまで考えて
気がついたことがあります。
人慣れ
していない
犬達の姿が
あの人には
もしかしたら
見えていないのかも
しれない。
人になつかない犬は
犬としてカウントされず
あの人の心からすでに抹殺されていたなら 。
センターにいる
すべての犬が
晒される過酷な環境や
こちらの懸念が
伝わらないのも
当然かもしれません。
自分の主義主張に酔いしれて
犬達の過酷な現実を
無視するとするなら
それはもうすでに
動物愛護ではなく
動物虐待の事案となります。
今すぐ
一家に一頭
と言わず
一人に一頭
国中の人達が
犬達を
受け入れてくれる
社会になったなら
もちろん
こんなこと書かなくても
済みます。
今すぐ
それが出来るなら
みんなの願い通り
殺処分は無くなり
センターも
必要なくなります。