飼ってみないと

わからないこともあるけれど
飼わなくても
わかることもあります。
 
犬猫達を触ることよりも
観察させ
犬猫達の気持ちを
想像させること。
犬猫達の中に
自分の姿や心を見つけたら
大人でも
子供でも
目が離せなくなります。
 
捨てないで!
可哀想!
ばかりを繰り返す啓蒙。
飼い主の責任ばかりを
訴える啓蒙。
 
受講する側として見た時
あってはならないことですが
自分が捨てたり
手放しても
こんなに一生懸命
助けてくれる人達が
いるんだから大丈夫。
そんな風に思う人も
いるような気がするのです。
 
以前、志村動物園で
アルマの活動が取り上げられ
ぺこちゃんやりゅうちぇるさんが
来ていた時期がありました。
 
見ている側からすれば
寄付や里親希望が増えて
いいことばかりだろうと
思われていたかも知れませんが
現実は全く逆でした。
 
あんなに一生懸命
お世話をしてくれるなら
ウチのコを
引き取って欲しい。
 
現実にはそんな話が
急増したのです。
その可能性を
懸念はしていたものの
まさか本当に
そんな話がたくさん来るなんて。
 
人間の身勝手さの
底なし加減に
顎が外れる思いでした。
 
もしそれを断った日には
愛護団体のくせに
と言う捨て台詞。
 
ある国で、
ゴミをポイ捨てすることを
何故やめないかと聞いたら
ゴミを集める人達の
仕事が
なくなるからだと言う
答えが返ってきたそうです。
 
これは、日本の
そして、犬猫達の
話ではないけれど
こんな風に
自分達には到底
想像もつかないような
ロジックで
正論を語る人が
世の中には
まだまだたくさんいて
今の現実があるのだと
思い至るのです。
 
これまでも
センターや愛護団体は
様々な啓蒙活動や
啓発活動をやってきました。
 
しかしながら
一部の動物好きの人達には響いても
もともと、動物達に対して
興味や関心が薄く
飼わなければ
捨てることは
ありません
それでも
なんとなく動物を
飼ってしまうような人達の
心根を大きく変えることは
未だ出来ていません。
 
そうした人達に
持たせるべきは
重いばかりの責任感ではなく
本物の愛着ではないか。
 
失いたくないと思わせる
彼らの持つ本当の魅力を
改めて、伝え合える人を
増やしていくこと
そして命を託せる人を
増やしていくこと。
 
ファッションでも
一時の感情でもなく
結婚相手を選ぶように
犬猫との縁を探すことが
当たり前な社会に
なってほしい。
 
捨てられたから
殺されるから
可哀想だから
保護犬猫を
迎えてほしいわけじゃない。
 
少なくとも
私が考える
動物愛護活動で
伝えたいことは
そんなことじゃない。
 
どんなところから
迎えてもいい。
それが
保護犬猫で
なくてもいい。
 
ただ、迎えたなら
最後まで
添い遂げてほしい。
 
愛着を持って
最後まで、楽しく
暮らしてほしい。
 
愛護団体が
可哀想だ、可哀想だと
頑張り過ぎれば
それを利用しようとするのは
行政ではなく
安易に犬を飼い
捨てる人達かもしれません。
 
殺処分という言葉が
一人歩きして
捨てられた犬達が
どうなるかを
多くの人が
知っている
世の中になりました。
 
可哀想な犬猫達を
増やさないためには
避妊去勢の啓蒙と徹底。
そして、いま
愛護団体が伝えるべきは
保護犬猫の悲惨な処遇や
飼い主の責任ばかりに終始せず
犬との生活を楽しく
より良いものにするために
必要な学びを
公共的に提供する場と
なっていこうと努めることが
究極の入り口対策に
なるような気がします。