人は罪を犯すと

刑務所に入ります。

刑務所がなぜ

罪を犯した者に対しての

罰になるか。


中にいる人達になくて

外にいる私達にあるもの。

恐らくは

「選択の自由」

ではないかなと思います。


人は常に選択しています。

五感に感じるものすべてに対して

無意識のうちに選択していて

その選択の軸が何かを考えた時

その瞬間が

不快か快適かという

問いに行き当たるような

気がします。

とはいえ

私達一人一人が感じる感覚には

差があります。

何かの刺激や

環境を良しとする人もいれば

否という人もいる。


それを決定づけるのは

その人が育った環境に

大きく依るものであります。


そうした視点に立った時

刑務所の中には

個々に応じての

選択の自由はありません。

つまるところ

死ぬ自由すらない。


生きる上で

選択するという自由を

取り上げられることが

何よりの苦痛である

という前提で

刑務所という場所が

存在しているのです。


社会的な規範の範囲内で

個々の快適さを求めることを

追求したのが家庭や

一人一人の暮らしだとするなら

それは、人間も犬も

変わらずに持っている

生得的な欲求ではないかなと

思います。


それが満たされない時

生きること自体が

苦しみに変わるのです。


犬には飼い主が必要です。

心をしっかりと通わせ合える

時間と温もりが必要なんです。


センターの場所や

人員を増やしても

残念ながら

一頭一頭の飼い主の役目を

果たすことは出来ません。


犬達にとって

欠かすことの出来ない

絶対的なニーズが

飼い主である人間との

絆や日常であるとするならば

それを与えられることのない

生かされるだけの日々

安心や安全を

脅かされ

満足に眠ることすら

出来ない日々が

どんなに苦渋に満ちた生活か

考えなければ

ならないと感じています。


そんな生活や

生涯で終わらせていい犬は

一頭もいません。


彼らを救う。


その意味は

生かすことのみに

あるわけではないという

言い難い真実を

しっかりと受け止め

彼らが味わっている

苦渋を共有し

あるべき社会を

創造していくことでしか

望むべき状況や

環境は実現して

いかないのだと思います。


センターは

常に苦渋に満ちています。

心ある愛護団体も

皆、苦渋の判断に

満ちています。

彼らの真の幸福を

願えばこそ苦しんでいる。


もっと場所を増やして

世話をする人を増やせば

そんなに

苦しまなくて

いいじゃないかなんて

そんな、安易な

問題ではないのです。

彼らや

心ある人の

苦しみが

漫然と増えるだけで

対症療法にすら

ならないのです。


だからこそ

犬の可哀想な話ではなく

ただ、そこにいるだけで

私達の心をこんなにも

温めてくれる事実を

犬の真の素晴らしさを

もっともっと

話していってほしい。


そして、彼らの

真の理解者を

増やしていってほしいと

切に願っております。


犬と暮らしたい人が

一人でも増えるように

一人でも多くの人が

犬猫達との暮らしを

取り戻せる社会になるように。


彼らとの豊かな日々を

伝えられる人間でいたいと

思っています。