愛護団体と
繋がりがあるというだけで
私のところにも
カワイソウナコガ
イルンダケド…。
という一報を
寄せて下さる方がいますm(__)m。
正直、私にどうしてほしいのか
わからないアヤフヤな言い方で
私が意向を察して
助けることを承諾することを
待つような
微妙な空気が流れます。
心ある善意か
ただの自己満足のための偽善かは
すぐにわかります。
自分に出来ないことだからこそ
人に頼ったり頼むことさえ
申し訳ないことであるはずなのに
そうした方のほとんどは
自ら汗をかく前に
連絡してくる上に
その申し出に対して
色の良い返事が聞かれないと
わかるや
〇〇のくせになどと
自分のことは棚に上げ
一方的に相手を
責め立てたりするのです。
道端に落ちていたバトンを
拾って届けたことを
褒められたいだけのような
バトンをパスして
任務完了のような
子供じみた様子を目にすると
なんとも言えない
複雑な気持ちになります。
自分で抱えられないなら
幾許かの努力すら出来ないなら
その命をイタズラに憐れんだり
関わる資格すら
持たされてはいないのです。
可哀想なのは
その子だけではありません。
可哀想だからと
一度でも感情に判断を委ねたら
その後、見かける子すべてを
助けなければ嘘です。
命の蛇口は壊れています。
その一頭の後ろには
何万頭の命が
連なるようにして
いまこの瞬間にも
命を絶たれている現実があります。
あの子を助けたのに
この子を助けられない
という現実に
いつか自分が打ちのめされる…
その責めを嫌い
抱えるだけ抱えて
立ち行かなくなり
多頭崩壊してしまう人もいます。
どこの団体でも
毎日のように
言い知れない
葛藤が渦巻いているのです。
私に出来ることは
目の前の
一頭の命を救うために
隣にいる
一人の意識を変えること。
一人一人が一人一人に
向き合い、伝え、繋がることこそが
社会全体の動物に対する
意識を変えることへ繋がり
真の動物愛護の躍進に
貢献するものだと
信じている次第なのです。
可哀想という感情だけでは
助けられないほど
動物達の置かれた状況は深刻です。
その元凶は
私達人間の
命や心に対する
浅はかな感情や
商業主義に毒された
意識の低さにあるのです。