躾を考える前に
どう教えるかを
考えること。
教えられてもいないのに
出来ないことを責められるのは
誰だって嫌なものです。
教える側に必要なのは
テクニックではなく
目の前の
心の在り処を感じ取る
感性ではないかなと思います。
世の中には
たくさんの躾の方法や
形式がありますが
そんな風に形式ばることで
一部の人間の特権を生み
「教える側」が持つべき感性を
放棄させてきたのです。
教える側に感性がなければ
教えられる側の感性が
育つことはありません。
私達一人一人が
感性を放棄して
相対的な物差しでしか
物事を見れなくなれば
多様性への
対応力が育たず
尊重すべき本来の個性を否定し
無意識のうちにそれらを
合理的に排除していく
社会になります。
個性を大切にと言いながら
本質的な個性への
手間のかかる理解は
おざなりにし
我儘という偽りの個性を
安易に尊重する
誤魔化しが横行した結果
本質的な個性に内在された
感性を失う結果に
なっているのだと思います。
我慢を鍛え
感性を磨くためには
自分の頭で
考えることを
楽しませることであり
完成された物を
与え過ぎないことが
ある種の糧に
なるような気がしています。
あの子が今何を考えているかを
自分の思惑で決めつける前に
共に辿り着きたい場所を
心の一番星にして
その子の今を考えること。
あの子とこの子は
違うから
歩幅や道順は
違って当然。
ただ
いつか
あの頂きで
あの子やこの子の笑顔に
会えることを願うこと。
それが「教える」という
ことではないかと思うのです。
教えることも
しっかり出来ていないのに
一方的に
躾けるなんて
なんて偉そうなんだろう。
私達が思う以上に
彼らは
学びを求めているのだから
真摯に向き合い
共に学び合い
頂きを目指す気持ちが
教育の原点なのだなと
思い至っているのです。