行政の機関である
愛護センターのことすら
一般には知らない人が多い中で
愛護団体がどんな活動をしているか
どんな人達が集まり
どんな気持ちで活動しているか
残念ながら
想像出来ないのが
普通なのかもしれません。
助けたい。
動物愛護団体なら
きっと何とかしてくれる。
だって、愛護団体だから…。
して欲しいことを
拒否されて
感情的になる大人は
子供以下です。
拒否するなんて酷いと
正論を振りかざして
相手を攻め立てる前に
自身の望みの本質を
知るべきだと
個人的には思います。
あの子を助けたい。
その思いは
みんな同じなのです。
願わくば
あの子だけじゃなく
不遇な犬猫達を片っ端から
助けたい。
そう願い続け
活動しながらも
すべてを救うことなど
到底、追いつかない現実の中で
救えなかった命への悔恨を
愛護に携わる人達の多くは
日々胸に
痛みとして
刻み続けているのです。
いやらしい言い方ですが
自分の善意を
昇華させるために
人の善意を
当てにしてはダメなのです。
善意を持つなら持つなりの
責任やリスクがあります。
責任やリスクの無い善意は
善意とは言えません。
善意には
覚悟がいります。
どんなに
気持ちが揺さぶられても
家族や生活、人生を考えた時
責任やリスクを易々と
取れないのが
ある意味
普通なのだと思います。
善意のあり方は
それぞれの状況に
よるところが大きく
どんな
正論を持ってしても
他人に
押し付けることは
出来ないのです。
覚悟のない善意や
冷静さを失った善意は
犬達を三度、不幸にします。
保護団体の破綻や
個人保護主による
多頭飼育崩壊など
助けようとした人が
逆に助けを必要と
せざるを得なくなるような実態も
増えてきています。
また、静かに深刻さを
増しはじめている
新たな問題が
高齢者の
飼育放棄の問題です。
地域の繋がりの崩壊を背景に
高齢者の方達の心を
犬達が支える現実があります。
しかしながら
高齢者の置かれた現実には
犬達を守りきるための
繋がりも知恵も余力も
残されてはいないのです。
生き別れにしろ
死別にしろ
周りの人が
動物の処遇を案じて
思いつく場所へ
問い合わせてくれるだけ
きっと
ましなんだと思います。
現実には
もっと悲惨なケースが
たくさんあります。
最後まで一緒にいたい。
最後まで一緒に
いさせてあげたい。
それぞれの立場で
皆一様に
悩み続けています。
犬達は
相手を選ぶことなく
そして、惜しむことなく
持ちうる限りの愛を
私達人間に与えてくれます。
だからこそ
社会で犬を育て
社会全体が犬達の
飼い主になれるような
大きな発想が
求められていると感じています。
犬は人と人を繋いでくれます。
そして、人と人が
繋がりあった場所こそが
犬達にとっての
唯一の
安全地帯に
なるのだと思うのです。