とても
基本的な話です。
 
犬や猫達には
私達が必要ですが
私達のために
彼らは
生きているのでは
ありません。
 
人間に傷つけられ
裏切られた
彼らを前にして
私が口に出来る言葉は
人間としての
謝罪の言葉しかありません。
 
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悪かったね
辛い思いをさせて。
 
ごめんよ、
ごめんね。
 
苦しかったね
痛かったね
もう大丈夫だからね。
 
 
 
彼らに苦しみを
もたらしている元凶は
人間社会に蔓延する
感情論です。
 
私達一人一人の感情は
経済を良くも悪くも
動かします。
経済を回すために
私達の感情が
扇動されているのが
いまの社会の実態です。
 
個人的な感情や
批判や恨み辛みより
問題の根本的な解決に
必要なことは
あまりに酷く酷い現実に
一人一人が立ち止まって
考える勇気です。
 
人はわからないことや
自分が想像し得ないことに出会うと
まるで火中の栗を拾ったかのように
慌てて答えを探そうとします。
 
でも、大抵は
答えなんて
そう簡単には
見つかりませんから
人によっては
それを他者への怒りや批判
不満や自責などの反応で
処理して切り抜けようとしますが
そんな時に
どうか
安易なジャッジに逃げず
理解に苦しみながら
わからないことを
わからないと受け止め
その答えが
わかる時が来るまで
覚えていて欲しいのです。
 
わからないという
モヤモヤを
火中の栗の
わけのわからない熱さを
逃げずに
感じ切って欲しい。
 
堪えた分だけ
心は鋭敏になります。
 
誰かや何かに
答えを求めず
自問自答することが
想像力の基礎であり
思いやりの
原資なのです。
 
命あるものに対して
深い敬意があったなら
可愛い
可哀相という
言葉の軽さに
嫌気がさすでしょうし
その甘やかな言葉を
酷たらしい現実に
使うこと自体が
躊躇われるでしょう。
 
無垢な心は
私達の言葉の真意に
鋭敏に反応します。
彼らは
言葉を使うことは
不自由かもしれませんが
言葉がわからないわけでも
通じないわけでもないのです。
 
言った方は忘れますが
言われた方は
いつまでも
忘れないのが言葉の持つ
怖さです。
 
愛護団体は
彷徨う犬達のために必要ですが
捨てる人のために
あるのではありません。
 
ましてや
誰かの感情や衝動を
癒すためにあるのではありません。
 
センターの犬猫達を取り巻く
様々な言葉や感情。
持ち込む方にも
持ち込まれる方にも
助ける方にも
命を断つ方にも
それぞれの正義があり
正論があります。
 
正論は
一人一人違います。
それが健全な社会です。
 
命は等しく
守られるべき。
これも正論です。
 
しかし
それを、頑なに守れば
人間なんて
生きていくことは出来ませんし
そもそも人間なんて
みんな
いなくなればいいという極論すらも
正論になるのです。
 
正論が一つになると
世の中は
一気に
おかしくなっていきます。
 
いま、社会に必要なのは
正論ではなく
違いを超えて
お互いを
信頼し尊重しあう心です。
 
その社会の実現の向こう側に
犬猫達の安寧な社会が
広がっているのです。