「リテラシー」という言葉を
ご存知の人は多いかもしれません。
意味としては
☆与えられた材料から
必要な情報を引き出し、
活用する能力。応用力。
インターネットの普及のなか
情報の洪水とも言える現代を
健全に泳ぎ切るために
必要なチカラとして
子供達に身につけさせることを
提唱されている概念です。
こうした考え方を持てなければ
簡単に
被害者にも
加害者にもなりうる怖さが
インターネットにはあります。
そして、最近見た映画で出てきた
「ジャッジメンタル」という言葉。
☆解釈は様々ありますが
主な意味としては…
見た目で判断したり
偏見を持って接したりすること。
この言葉
シンプルですが
とても深いです。
いまの日本は
世界に類を見ないほど
スピードを要求される社会です。
スピードをもって
様々なことに
対応するために
ジャッジメンタル
=「決めつけ」は
便利に用いられてきました。
この二つの言葉を
心に留め置くことは
あらゆる情報を
正しく有益に取得して
本質を理解し
さらにそれを
他者へ発信するための内省に
欠かせないことだと
感じています。
物事の断片的な理解は
瞬間的に感情を
大きく揺さぶるものの
物事の前進にはあまり
繋がらないことが多いです。
例えば⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎ブック。
犬猫のことに関しての
様々な情報が
立て板に水の如く
大量にそして
猛スピードで流れ
拡散している現状があります。
一昔前のアナログな
愛護活動とは
まったく
規模もスピードも異なります。
アナログな時代からすれば
待ち望んだ状況かもしれない。
しかしながら
その反面、
それらの情報をきちんと処理し
理解する能力を持たなければ
溺れ、踊らされる
可能性もあることを
私達ひとりひとりが
わかっていないとならないと
感じています。
一度、流してしまった情報は
「デジタルタトゥー」となって
世界のどこかに
消えずに残ります。
このことだけでも
ネットの入り口の
気安さからは
考えられないほどの
根深さがあるのも事実です。
その根深さに
足を取られないためには
自らの思考を客観視しながら
感情ではなく
知性で判断出来る
自分になるしかありません。
誹謗中傷で救える命は
ありません。
ネットには
犬や猫に関する
「可哀想」と「助けて」が
止めどもなく溢れていて
感情の蓋をしっかり
抑えていなければ
気分が悪くなるくらいの
激しい無力さに苛まれます。
止めどない数の命が
濁流に呑まれていく様を
覗き込んでいながら
一頭すら救えない現実に
保護の世界から遠ざかる人
知りながら
遠ざける人も多いと思います。
愛護や社会の目指すべき
流れは一昔前に比べたら
かなり、明確に
なって来ています。
それを一層
昇華させるためには
より一層の
知性が求められています。
私の思う知性は
ただただ
深い思い遣りを
どれだけの他者に
持てるかに
尽きるだろうと
思っています。
決めつけずに
情報を選び抜き
望む未来を明確に
描き切ること。
小さな一歩を
大きな一歩にするためには
悩みながらも
踏み出し続けるしか
ありません。
今日、女子サッカーが
惜しくも
アメリカに負けました。
グランドにあがる人
あがらない人も
その役割には
上も下もなく
与えられた役割を
ひとりひとりが
精一杯果たし
心一つで目指す場所に
手を伸ばし続ける
その懸命な後ろ姿に
サッカーを
まったく知らない人も
心を動かされるのです。
ひとりひとりが
自分の望む世界を掴むのに
ネガティヴな争いは
必要ありません。
現状を
誰かのせいにしている限り
変化は起こせないからです。
大切なのは
似たような考えの人を
掻き集めることではなく
ひとりひとりが
それぞれの場所で
その人ならではの
知性を発揮することだと
思っています。
出来ることに
限りはあります。
神様はいません。
でも、私達には
知性があり
知恵があります。
その繋がりこそ
神がかりな願いでも
叶えるチカラに成りうると
思っています。
犬や猫たちは
その命をかけて
私達人間に
知性的に
繋がることを
促しているように
思えてなりません。
そうして得られるものは
犬や猫の命を
救うのみならず
私達人間の「心」を
救うという大事業を
犬や猫たちは
彼らの大きな愛情で
成し遂げさせようと
しているのだと
彼らの慈愛に満ちた
眼差しを前に
思わずにはいられない
今日この頃なのです。
犬猫を想うことは
その傍にいる
人の心を想うことに
繋がります。